オレもしつこいな

 セガンが「サルペトリエール院」で実践をしていないと気づき、ほぼ確定した時の日記を再現しよう。
2003年11月7日
 午前中、セガンについて、これまで調べたことと先行研究との間の齟齬について、清水先生と電話で詳細な検討。不明なのはサルペトリエール総合救済院でセガンが実践をしたと断定している日本のセガン研究。フランス国内で出されている研究書やセガンの回想にはサルペトリエール総合救済院の名称は登場しない。清水先生との協議では、この点は保留する、ということになった。
 夕食後「サルペトリエール」について『パリ歴史事典』をたよりとして調べる。また、サン・マルタン街(フォブール・サン=マルタン)についての情報をある程度収集。
 1840年11月4日に救済院総評議会がセガンを白痴の青年たちの教育のために教師の身分で雇用すると決定している。その場はド・セヴル通り(女子)とサン・マルタン街(男子)の2つである。セガンは、手元の資料で確認できるのは、1841年10月から3ヶ月間、サン・マルタン街(男子)のみで白痴教育の実践をし、大きな教育的成果をあげ、報告書にまとめた。この実践を、邦訳でも日本のセガン研究でも「サルペトリエール総合救済院での実践」と断定してきた。
 この間の翻訳で原典に当たってきたけれども、その断定に疑問を持ち続けてきた。断定の根拠が不明であったからである。今日の調査では、やはり別である、とぼくは断定する。サルペトリエールはセーヌ川沿い左岸の元船着き場である地名。サン・マルタン街はセーヌ川右岸、市外街区である地名。両者を地名と見ればことは簡単なはずである。柏と松戸とは違うのだ。