ぼくにとってのパリ

 ぼくがフランス、とりわけパリに愛着を覚えるのは何なのだろう。現代のフランス文化にはさっぱり興味を持つことのないぼくがいる。モンパルナスやポンピドーのような、あるいは副都心のビル群のような、モダンな建築物が視界に入るとさっさとその場を去るぼくがいる。それと同時に凱旋門ルーブル宮殿、グラン・パレ、そしてまだ視界に入れたことはないがヴェルサイユ宮殿なども、その内部はもとより外形に至るまで、そこで時間を過ごすことは無為であるように感じてしまう。それらはフランス総体、パリ総体がぼくを魅了しているわけではないことの証左である。その一方で、女性の顔や仮想動物の姿を彫り込んだ建築物が、壁面を残してあとはすべて解体され、改築中の現場に出会うと、しばし足をとどめる。なにやら寂しさと安堵とが交差する。また建築物の間から石積みの旧パリの城壁の残骸が顔をのぞかせていると、そこに積まれた石の一つに手のひらを当て体感する。同時にそれを壁にしている建築物を目線で確かめる。慈しみの心と安らぎの心とが混じり合う。パリの街のあちこちで出会う石畳も、形よくはめ込まれたそれよりも、不揃いなそれに思いを強くするのである。同時的ではあるが同時的でないもの、それこそがぼくにとってのフランス文化、パリ文化の本質なのである。―エッセイ「同時性と非同時性の交差(2003年)」より