(旧作)オヤジ日記


 今日は「父の日」だと、世間では大騒ぎといっても過剰表現ではないコマーシャリズムに溢れている。「母の日」があって「父の日」がないとはジェンダー問題だ、などと問題にした結果というわけではあるまい。その依って立つところは、アイデンティティ喪失状態が喧伝されている日本で、≪生きる≫ことの原点として、家族の絆の捉え返しをしなくてはおられない、それには≪母性≫だけではなく≪父性≫への≪憧憬≫のようなものを強調しようというのだろうか。それが自然的風潮なのか人為的風潮なのか、そこまではぼくにはクリティーク能力を持たない。が、ぼく自身、ぼくの記憶の底から≪父性≫的なものを蘇らせてみたい、という瞬間的情念に駆り立てられたのも事実である。
 ディスクの隅っこに眠っているファイルを開く。それは、さる教育雑誌の編集にたずさわっていた時―もう20年も前になるのだなぁ―、原稿に一本穴が開いた。それで急遽書き下ろしたものであった。筆名:瀬田康司。

1.不定型三世代家族
 母、78才。妻、39才、地方公務員。長女、裕未、14才、中3。次女、祐、13才、中1。そして私、47才、研究所員。これがわが家族である。
 母は、小学校教員を退職後、しばしば国内外に旅行し、日常は小さな畑で、家庭で食するには余る野菜類を育て、また、小さな庭に野草を栽培し鑑賞している。野菜や野草のたぐいは、私の生家でも育てているので、母は、二つの家の往復に忙しい。
 二人の子どもは、物心がつくようになって以降、母の二つの家の往復の伴を喜んでしていた。瀬田家のある時期8年ほどは、正月、春休み、夏休みなどの長期の休みになると、夫婦二人だけの生活が常体であったほどだ。
 ところが、裕未が中学校に入学してからは、子ども達は母の伴をしなくなった。母は、一時期、「孫達が私を嫌うようになった。」と愚痴をこぼし、私達が子どもをそそのかせてそうさせているかのように、思いなしていた。
 そうなると母は、この小さな家、にぎやかな家族には自分の居所がないかのように、ほとんどいつかなくなった。年に数日、野菜類の採りいれ、種蒔きの時期に、ふらっとあらわれ、またいなくなる。
 母のこのような変化があらわれたとほぼ同じ時期に、私が転勤となり、単身赴任生活を送るようになる。
 かくて我が瀬田家は、三世代家族でありながら、妻と子の世帯、母の世帯、私の世帯という三世帯別居家族、三世代不定型家族とあいなった。
2.おお、イヌフグリ・・・
 我が家族の本体、つまり、妻と子の世帯には、犬が二頭飼われている。一頭は、迷いこんできてそのまま住み着いた雑種、チビタ。数ヶ月ほど前病死したワンタより小さいので、私が命名した。あと1頭は、ワンタの後釜として知人より譲り受けた、シェパード・ジンジャー。
 「おとうさんだと、メスだから、ワンコという名を付けてしまう。かわいそう。」
 ということで、譲り受けるのも、命名も、私の留守の間のことだった。事実、10年ほど前にいたメス犬はワンコという名前だった。
 犬の飼育に関しては、すべて祐が指揮権を握っている。餌の与え方、散歩のしかた、入浴のさせ方、叱り方等しつけは、人間と犬との快適な共存方法にかかわると、帰宅中の私に得々と語って聞かせる。そして私が、祐の指示通りに動く。あまりうるさくいわれるときなどは、「君達が世話をしないのなら、保健所行き!」とヒステリーを起こすが、妻子の冷たい視線を浴びて、ことは終わり。まあいいか、日常は彼らがきちんとやっているのだから。
 初夏のある日、
 「ジンジャー、おとなしくして!ダニが取れないでしょう!」
 「チビタ、いい子だね、ほら、こんなに血を吸って、ボールみたいに膨らんでいるよ。ちょっと痛いけど、がまんだよ。」
 と興じている娘の声が仕事場に聞こえてきた。二人の会話は、まるで、私達が娘を育ててきた道筋を再現しているようであった。
 そっと窓から覗くと、祐がジンジャーの世話に手を焼いたらしく、二人 してチビタを仰向けにしてダニ取りを始めた。
 どれ、私はジンジャーの世話をするか。
 二人の近くに寄って、聞こえてきた会話内容に、仰天してしまった。
 裕未「祐ちゃん、フグリとチンチンとどっちが好き。」
 祐 「私、チンチン。」
 犬のダニはところかまわずついている。二人でその作業分担の相談をしている会話なのだと思えばそれだけのことだ。しかし、そのあとに続く会話。
 裕未「私はフグリ。フニャフニャとした手触りが好き。」
 祐 「私は、チンチン。硬くていい。」
 二人の手は、チビタの陰嚢と陰茎とを、忙しく動き回っている。あれこれいじくりまわられているチビタは、為されるがまま。
 二人の作業を茫然と眺めている私に気付いた裕未が、
 「おとうさん、何でフグリが体の外に出てるのか知ってる?」
 と尋ねてきた。
 「どうして?」
 「精子はね、熱に弱いんだ。体の熱でもだめなんだね。だから、外に出し て、保護してるんだよ。」
 「ふーん、そうか。祐は知ってる?」
 「知ってるよ。」
 祐はぶっきらぼうに応えた。「よく知ってるね。」という私に、「学校で習ったし、生殖のことは大切なことだよ。」と応えたのは、裕未だった。
 三人で犬のダニ取りを続けた。
 「ほら、おとうさん、フグリの付け根。」
 「だめだよ。裕未、とって。」
 「変な、おとうさん。」
3.挨拶の変化
 仕事で疲れきったからだを引きずって帰宅。
 「ただいま。」とやや大きめの声で呼ぶと、子ども達が抱えている、それぞれ好みのぬいぐるみが、「おかえり。」としぐさを交えて出迎えてくれる。小学校高学年になってもそんな出迎え行事をくりかえしていたことに、親とは勝手なもので、子ども達の「幼さ」に不満を抱きながら、「幼さ」は消えていくものではないと安心しきっている。
 単身赴任が始まり、子ども達と顔をあわせることがめっきり少なくなり月に数日しか身近に見ることがなくなれば、ことさら「幼さ」への期待が 強まっている自分を発見する。
 単身赴任後初めての帰宅の日。意気込んで「ただいま!」と玄関に入った。二つのぬいぐるみが飛びだしてくるはずなのに、この日は、二階の子ども部屋からかすかに「おかえり」という声が聞こえてくるだけだった。手が離せないのかもしれないと思い、彼女達の部屋まで行き、もう一度、そして期待を持って「ただいま」と声をかけた。しかし、二人は振り向きもせず、気が重そうに
「おかえり」
 と返事したにすぎなかった。
 こんなこともたまにあるわな。事実、その次に帰宅したときには、ぬいぐるみこそあらわれなかったが、玄関までの出迎えがあった。だが、その次には、あの気の重そうな声。
 帰宅を幾度もくりかえしていくと、子ども達に、父が帰る=出迎える、という意識構図が薄れてきていることはわかってくる。彼女達が祖母にたいしてそうしていたことを、父の単身赴任ということをきっかけにして、父にたいしても、し始めたのだ。
 私と母の帰宅が偶然重なった日は、出迎えはおろか、言葉すらなかった。たまにはあるわな、という楽天性ですませておくことはできない。私と娘達と三人で、正座しながら向かいあった。共同生活の時間が少なくなるにしたがって、心の紐帯を感じることが難しくなる。せめて帰宅を出迎えるという行為だけは、お互いに大切にしたい。これが娘に語ったことだ。
 娘の頬を流れた涙は何を語っているのだろう。
 時折、私の仕事場の椅子の上に、黒ヒョウだのジャガーだの、キタキツネだのが座って、私の帰宅を歓迎していることがある。しかし、玄関へのぬいぐるみの出迎えはまったくなくなった。さらに姿をあらわしての出迎えもめっきり少なくなった。しかし、声の挨拶は、出迎えばかりでなく、朝夕、食事などで欠かすことはない。私も妻も、以前に増して、明るさと元気さとを、そして時にはひょうきんさとを意識するようになった。
4.一人旅
 休みには祖母の伴をするという生活に変化が起こり始めたのは、裕未が中学に入学しての初めての夏休みだった。クラスメートの愛ちゃんと京都に行きたいという。およそ十日に及ぶ京都旅行は、修学旅行を除いて、家族と離れて暮らす初めての経験になる。大きな字で「元気です。今日は金閣寺。」とだけ書かれた絵葉書が届いたのは、彼女か帰宅した翌日だった。その間、電話一つよこさなかった。
 翌年の夏休みは、10年ぶりの親子旅行となった。親子旅行といっても、以前と同じく私と妻の仕事を兼ねたものだ。今回はアメリカ旅行であった。昼間、父母が仕事をしている間は、子ども達だけで生活をしなければならない。日本語が通じない社会で過ごせるか心配ではあったが、案ずるより生むが易し。
 アメリカ国内飛行機の中で、バカンスからカルフォニアに帰る途中だという一人旅の少女と筆談会話。帰国後も娘達は、くだんの少女・タラちゃんと文通を続けている。
 さて、今年の夏休み前のこと。娘に似て筆不精、連絡不精の妻から、電話が入った。「あなたには、反対されると思ったけど、裕未が中国に旅行したいんですって。」「だって、裕未は受験生だぞ。それでなくても勉強が遅れているから、この夏取り戻さなくっちゃならないことぐらい、裕未だって、君だって知ってるだろう。」
 裕未を説得したほうがいいと思い、電話口に呼び出した。どうしても行きたい、という。 結局は、「おとうさんは反対だ。でも、行くか行かないかを決めるのは君だ。」ということになり、裕未は二週間の中国旅行に旅立っ た。相変わらず、音信は少ない。
 いまでも旅行に行かせたことについては、疑問が残っている。しかし、裕未が生まれてこのかた、私の反対の意を受け入れなかったのは、初めてのことだ。そういう意味では、裕未の中国旅行は、裕未の人生一人旅の始ま りを象徴しているのかもしれない。
5.迷いつ、上る道
 思いっきり、思春期を生きさせたい。問題はどう生きさせるかである。親のこんな思いとは別の筋道で、子どもたちは、それぞれに自分で思春期を生きている。
 裕未は歯がゆいほどのマイペース。例によって今日のいじめの風潮に巻き込まれてはいるが、「気にしない、気にしない。」と、今日も慌ただしく学校に出かけていく。昨年の試練を乗り越えたかな。―
 昨年の二学期、妻から沈痛な電話が入った。裕未が登校拒否をしている、というのだ。不登校の事実が妻に知れた日、裕未は「おかあさんに知れてよかった。」と泣きくづれた。行かなければならないと思い、出勤前の妻よ り先に家を出るが、頭痛・腹痛のため、一日を近くの公園で隠れるように過ごした。何とかしたいけれど、もう自分では何ともできない、だれか助けてほしい。そんな思いを一ヶ月も繰り返していたのだ。
 「助けてほしい。」
 子どもの悲痛な叫びに、親は何をどう助ければいいのか。きっかけは、家庭科の作品提出、英語の宿題など、山のような課題に埋もれる毎日で、それをこなしきれないことにたいする逃避であった。そうなれば友人関係のもつれも苦痛になってくる。教師の指導も叱責に聞こえてくる。父がいない家庭を自分が支えなければならないという重圧感が募ってくる。
 直接に対面する生活を送ることのできないもどかしさを、この時ほど強く味わったことはなし。かといって、顔をあわせる毎日であったとして、一体何ができたのだろう。
 不登校を知った翌朝から、私は妻の協力を得て、毎日電話で裕未を起こすことにした。
 「おはよう。起きたら着替えて、顔を洗うんだよ。」
 それだけで済ませる日が二週間ほども続いたろうか。
 「昨日は学校へ行ってみたの。でも、午前中でおなかが痛くなったら、帰ってしまった。」
 その日を境に、会話の時間が増え、日々の体調を聞くようになった。
 「なんかだるいんだよね。頑張ろうと思うけど。」
 「じゃあね、好きな本を思いっきり読みなよ。気が晴れるよ。でも、布団の中で読んじゃ、だめだよ。」
 「うん。そうしてみる。」
 できるだけ当面している課題から気を逸らせるように気を付けた。
 電話を入れ始めてから一ヶ月半経って、苦痛なく学校にいけたことを報告してくれた。
 二学期の欠席日数35日。三学期も電話入れの毎日を続けた。欠席日数10日。3年になってからは、風邪による高熱で休んだ以外は、元気に通っている。以前のように、マイペースの生き方で私達をやきもきさせてはいるが。
 それでも、苦手な数学を克服したいと、妹に教えを請うている場面も見られる。先日の学力試験で、「とうさん、数学の偏差値、ぐんと上がったよ。」と嬉々として報告してくれた。「良かったね。頑張ったね。」「でも、その分、社会が落ちちゃった。」
 一つのことに気を入れると、他のことはおろそかになってしまう。それは誰でもあたりまえのことなのに、学校や親は「気を抜くから!」と叱責を与える。子どもはまた、ひどく傷ついて、自室に閉じこもる。
 どうして子どもの喜びにだけ共感し、落胆に追い撃ちをかけてしまうのか。不登校を自力で克服した娘の力強さを、今、私達親は、ていねいに見据えなければならない時期に差し掛かっている。

 娘は、もうすぐ、親を越えていく。