「台帳」ってなんだ?

 今週は「自己評価」週。学生の評価を受けて授業改善につなげる、というのが「建前」。同僚が「学長が自己評価システムを導入すると決めた時から、我が学習院は死んだ。」とつぶやいていたが、ぼくのような「外様人間は」不平不満があろうとも、「にこにこ」と応じるのみ。「つぶやき」にも「にこにこ笑顔」で応じる。
 しかし、この「にこにこ」が突然怒りに転ずることがある。今日もそうだ。教職課程会議でこれまでどれほど議論を繰り返して来たろうか。講義か?演習か?その基本線を定めて作り「にこにこ」で応じてきた。
 今日2限の「教育基礎」は「講義」範疇。だから、「講義」を「評価する内容・項目」を意識し、授業を進める。だが、、「板書」はまるっきりしない。それは、どのように批判にさらされようが、「聞きとり纏める」という学習能力を養成しようとするぼくの講義目的の具体的表現だからだ。この点=つまり「板書」の「評価」は恐ろしいほどに低いのだろうなぁ。しかし、その能力のベースとなるもの=「聞き耳を立てる」「聞き分ける」能力はほとんど形成されないまま大学に入ってきているから、学生もぼくも、大いに苦労する問題ではある。命じられそれをそのまま覚え、求められるままに吐き出す能力のみは気持ち悪いほどに高いけれど。そんなモノで世の中わたれるのだから、人類の文化的発展のお先は真っ暗でごんす。その暗闇をこじ開けたい。それがノー板書。人はそれを手抜きという。ええやん、魂抜いとらんのやから。なんなら足抜けようか。・・・ちょっとちゃうな。
 さて、4限の「道徳教育の研究」。「講義」という授業形態が印字されている。この授業はどんなに人数が多くても「演習」なのだ。会議でそう決め、その旨教務に通知してきている。昨年は「演習」の範疇に入っていた。学生の評価を受ける前に、この点を質さねばならない。「演習」にふさわしくグループ学習・討議を進めている学生に断りを入れ、「自己評価」窓口へ。「教職課程では演習と定め、そのつもりで授業を進めてきている。どうして、どこで、何故、講義と変わったのか。」 十分な回答もないまま時間に追われて「じゃ、演習でやっていただいて結構です。」という「回答」を持って教室へ。「演習」で「自己評価」を受ける。「回答用紙」を持って窓口へ提出へ。責任者が控えており、詫びと説明を受けた。「確かに演習でした。間違っていたことをおわびします。」それに続けて言う、「台帳では講義となっているのです。」と。「え?」
 その後のことはここには書かないが、データ集計作業に混乱を来さないことを願うしかない。「演習」で授業をやって来た、しかし評価は「講義」でと。今の学生は矛盾を矛盾とも思わず、自身を他者にそのまま身を預け、唯々諾々従う。そんなのが授業改善につながる「自己評価」だとはとても思わない。
 それにしても、「台帳」ってなんだ?