オーソドックスとは何ぞや

 懐かしい人から懐かしいメールが届いた。メール時代ではなく手紙時代であったなら、「華のような便り」と表現したいところである。
 その華のお便りの中に「先生のフィールドワークはオーソドックスではないから」と綴られていた。それは否定すべき表現としてあるのではなく「興味深いから一緒に歩いてみたい」という文脈の中で綴られている。
 そうだなぁ。
 ぼくのフィールドワーク研究は修士論文作成過程で進められたのが初めて。その時に誰かの手引きがあったとか、誰かの真似をしたとか、そういうことはない。とにかく高知に行かなければ資料が調わないと先行研究から知り、真っ先に高知県立図書館を訪ね、目的の史資料を閲覧した。その作業の副産物として、先行研究に見ることのない史資料が蔵書されていることに気付き、それをコピーした。館員が親切に対応してくれ、人的な紹介を受け、その人たちを訊ね歩いた。
 ・・・これが初めてのフィールドワーク。こんなの「ご一緒」していただいても、面白くも何ともありませんな。オーソドックスやんけっ!・・・え?ちゃうの?
 ぼくの研究は基本的に人物研究であるから、研究対象の人物に関わる(と思われる)自然・社会・文化(歴史)など、ありとあらゆるものが調査対象として浮かび上がってくる。「墓」や「フォンティーヌ」や「洗濯場」や「家造りの石」や「戸籍」や「住居跡」など、なんでもござれ。セガン研究で今も苦しんでいるのは、セガンの初期実践で登場する「石工の梯子」「石切工の梯子」である。実物(最低でも写真、図版類)を確認しないことには、セガンの実践を追認できない。それらは、しかも、19世紀前半期のもの。どこに行けばあるの?何を見れば分かるの?
 そして、この身は、古書店、ノミの市、工芸博物館等をさまよい歩く主体となる。
 これって、「オーソドックス」じゃないのね?うーん、対象に行き当たらない限りエヘンと威張れないのだけれど、「オーソドックスじゃない」と言って興味持たれ、「ご一緒したい」などと言われると、いろんなところを、見た目は無目的に「ご一緒」するわけだから、鼻の下が長ーく伸びるのでありますな。ええ、是非、ご一緒したいですねぇ。