「セガン教具」との出会いの日のこと

 ぼくの「セガン研究」は、ある歴史過程に生きた一人の人物―オネジム=エドゥアール・セガン―の「疾風怒濤」の足跡を具体的に解き明かすことによって、「青年が時代社会の中で生きるとはどういうことか」、有り体に言えば、青年期とは何か、を探究するものであった。もちろん、セガンが白痴教育の偉大な開拓者であるという史実からは逃れられようもないから、当然、そちらの方も、チラチラ、と眺める。「セガン教具」との出会いは、そのチラチラ活動によって実現した。そしてその出会いの日、ぼくはとてもハッピーな「客観的な自分」像とも出会ったのである。その日の日記より―
「(2005年)3月6日 日 晴

 久しぶりにからりと晴れた天気。しかし冷気が厳しく身を刺す。午前中はクラムシー調査の整理にあたる。午後空気がゆるみ始めたのでパリの街の散策とする。
 パリ社会福祉・病院博物館(Musée de l’Assistance Pulique・Hôpitaux de Paris)を訪問。入館料は4ユーロと表示されていたが、今日は第一日曜日のために無料開放とのこと。博物館では「19世紀から20世紀 病院と子ども:病院 またの名は?..。」をテーマとしていた。ビセートル救済院の詳細、セガンに関する展示があるかもしれないと期待して館内を回る。テーマらしく中心展示は子ども病院の成立と発展過程。先日訪問したネッカー子ども病院がその前身の病弱者施療院(1802年)として設立されて以来の、病院の規模、部屋のベッド数、ある年の患者としての子どもの個人情報などが展示されていた。セガンが白痴教育を手がけるきっかけとなる出会いを得たゲルサン博士についてもパネル展示がされていた。しかし、(セガンの最初の「教え子」の)白痴・唖の子どもアドリアンについての情報は得ることができなかった。とはいうものの、ネッカー子ども病院で情報を得ることができるかもしれないという期待を抱くことができたのは成果である。また、かなり古い時代から、いわゆる「院内学級」のようなものが存在していたことを知る。さらに詳しい情報を得たいと受付にて訊ねたが、幾つかの書籍を紹介された。さらに進んで調査をしてからそれらの書物に目を通すことにした。
 展示には、「白痴」に関するコーナーがあり、ドゥリュスクルーズ、フュリュス、ブルヌヴィルのパネルが展示されていた。同行の通訳氏に「セガンはないねー」とぶつぶつつぶやいた。だが、そのパネルの向かいのコーナー(ブルヌヴィル・コーナー)にこそ、セガンが開発した「教具」(型板、金具など)ならびにセガンの1846年著書、そして小さくではあるがセガンの「白痴」教育開拓の先駆者としての業績顕彰の文字パネル版が掲示されていた。特設展示であるので、それぞれの展示物は常設しているところにいけば見ることができると、案内を得た。セガンの「教具」は、パリ第5大学内にある医学史博物館蔵である旨、添え書きがされていた。『セガン 知的障害教育・福祉の源流』第4巻(第5部)に収録された「セガンの教具」を翻訳担当したが、それは書籍情報でしかない。今目の前にしているのは実物である。また1848年著書の実物を目の前にすることができている。ぼくにとっては、研究対象であるにもかかわらず、それらは幻の存在でしかなかった・・・。
 博物館見学は、迫ってきている3月10日の、ネッカー子ども病院副院長再訪問に対する大きな意欲を沸き起こしてくれた。
 この散策の途中、製本屋のウインドウにパリ・コミューン関係のリトグラフが展示されているのを見つけ、購入。「パリ市役所の攻撃」とのタイトルが付されている。製作年は不明。
 エッセイ「雪の旅路も楽しからずや−エドゥアール・セガン生誕の地を訪ねて」執筆完了。約30枚7ページ。S先生にファックスでお送りする。
 博物館に行くため通訳氏と待ち合わせをしていた時、老婦人が声を掛けてきた。ちょうどタバコを吸っていた時だったので火を貸してほしいというのだと思っていた。婦人はバッグからちょうどタバコ入れの大きさのものを取り出した。口を開け指をつっこみ、取り出してきたのは、タバコではなく、2ユーロ硬貨だった。ぼくを物乞いと思ったらしい。あわてて、ノン・メルシーを繰り返した。旅に出てから伸び放題の髭、寒さを避けるために着込んだ服はどう見ても清潔には思われない。いつもせびりとられてばかりいるパリで、逆に恵みを与えられる存在となったぼく自身を、大いに喜ぶ。やがて駆けつけてきた通訳氏にこの話をする。
「芸術家っぽいですけどねぇ。」
「ほら、ゴッホだって、生前は貧困を絵で描いたようなものだったからね。芸術家というのは物乞いの代名詞かもね。」