ぼくがオーソドックスでない証拠

 今夏、10日ほど、パリ、オーセールを旅する。今回の旅は通訳、ガイドがほとんどつかない。ひょっとしてぼくの外国の旅では希有な経験。
 何度も行っているといっても、「言葉」の壁に覚える恐怖はぬぐい取れない。それで、これまでの旅の記録を紐解き、それを参考にしながら、頭の中で予行演習をしている。
 予行練習にもいろいろある。
 道歩き:これは絶対大丈夫。
 書籍探索:まあ大丈夫だろう。
 施設・機関の訪問:博物館のようなものは大丈夫だが、特殊な機関は不可能。だって、相手の言っていることをまるで理解できないのだから。
 食事:スーパーや朝市で品物を買って宿のベッドの上で食べるのは絶対に大丈夫。しかし、レストランに入って注文をして…というのはできるだけ避けたい。やっぱりベッド食かなぁ。キッチン備え付けの宿にすればよかったけど、宿代が高いからなぁ。
 こうやってぼくの旅行動を眺めてみると、やっぱりオーソドックスではないな。じっと自分の内に隠っている、そんな自画像が描かれる。まるで、夏目漱石みたいだな。神経症にかかるまでにはいかないから、ぼくはその点でもオーソドックスではない。
 いや、通訳、ガイドがついた旅だってオーソドックスでないぞ、という声が聞こえる。例えば食事を例に取ってみよ。こんな食文化が揃っているなんて、オーソドックスであるはずはない:「パリ入りして以来の食事:日本食、韓国料理、中国料理、ベトナム料理、チベット料理、フランス料理、ベルギー料理、イタリア料理。日本にいてはとても食べられないものばかり。」(『ヴァガボン漂流記』より)