こんな日も珍しい

 「引き籠もり鶴」を得意技とし日常性としているこのぼくに、あまりにも希有な出来事が重なった今日。
1.自身の「明日」に不安を覚え「安心」を求め来る若き人有り。抽象的「安心」では「不安」な「根性」しか活路は見いだせまい。時間が迫っていることもあり十分なアシストができなかったが、それでも、この君は、胃痛からは少し解放されたようだ。
2.遠来より「フレネ教育」について訪ね来る若き人有り。あに嬉しからずや。・・んにゃ、人見知りの激しいぼく故自己防衛策として喋りまくる。いつもの癖。そしていつも反省、「もっとお客様の声を聞くべきだ」った、と。あれぇ、いつの間にか苦情処理センターみたいだがや。苦情申し立てではなく、「明日」をキラキラ輝く瞳で語るまっすぐな人の語り、その語りにアシストしようとしたわけだから、語りをもっと具体的に聞き出すべきだったな、ということ。再会を約す。
3.自主ゼミ創成メンバーの2人が来室。「学びと癒し」とを求めてぼくの部屋に来たい、との熱い心。ぼくは「心を込めて対応するよ。」などとは言わない、「ぼくは君を愛しているからね。」という。来週の木曜日5限終了後、久しぶりの食事会を約する。
4.帰路、某女から「今夜映画を一緒に見ましょう。」のお誘いメール。んまぁ、どうしたことか。「ごめんなさい。早めに帰路につきました。」とお断りメール。まあ、どうしたことだろう。今後二度とあり得ないことなのに。ええやん。
5.友人有さんから呑みの誘い。ああ、面白い。「引き籠もり鶴」返上も、ごく希に、ぼくを生き生きとさせてくれる。
6.在学中に教育実習を行うことができず教師への道を絶たれていたIさんからメール。「念願の教育実習を行いました。吹奏楽クラブの指導も行いました。そのうち真っ黒に焼けた顔を研究室に出しに伺います。」Iさんの頑張りに大きな拍手を送りたい。
 そうそう、「オーソドックスじゃない」は素敵な展開になりつつあります。ぼくの直覚的なオーソドックス理解は「権威的常道」。だから「オーソドックスじゃない」と言われるのは非常に嬉しい。有さんは「超本格的」と理解してくれた。そして言い出しっぺの華の君は「オーソドックス」を「普通」と改めて綴って下さった。つまり、「普通じゃない」ってことね。「オーソドックス」にもいろいろな意味を包含した使われ方がある。
 ぼくは自分の意識内から「普通」「みんな」「通常」「常識」を追い出して生活をしている。だから、そういう意味の「オーソドックス」ではないと言われたとしたら、我が意を得たり!と膝を打つ。華の君はぼくの写真を「普通じゃない」と誉めて下さった。貴婦人も「ツルピンの写真は、観光地を撮っていたとしても、その土地の生活者の視点を見ることができる。」と言って下さっている。有さんの言は、研究者として、大変ありがたい誉め言葉として聞こえる。
 みなさま、ありがとうございます。「ぼくがこの世にぼくという個性を持って生きている証」である「オーソドックス」あるいは「オーソドックスではない」をこれからも求めていきたいと、改めて決意しました。
 セガン研究最終局面の旅日記〜「墓」探し は戸籍探し〜 をアップ。セガンの母方家系調査、セガン教具調査等の日記抄。拙著『知的障害(イディオ)教育の先駆者セガン〜孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)刊行を決意させることになった調査紀行です。