ガルルル+α

 ほとんど野獣化したうめき声が出た。今日のレートは何と111円台。3円も円高だ。今日は夕刻まで時間が空いているけれど、持ち合わせの「札束」はない。ガルルルル。
 昨今の研究会や講演会での「発表」「報告」は「視覚」が勝負となっている。ぼくは「お遊び」で「視覚」的に提供することはあっても、「論理」を視覚的に提供することはしない。イヤ、したくない。椎名誠氏が『週刊文春』今週号でこのことに言及しているが、氏に強く同意する。
 媛様が「ジイや、この書をお読みなさいね。」とお貸し下さったのが、中村光夫『戦争まで』(昭和35年、垂水書房版)だが、一文が長い中村独特の文体を、ゼイゼイ言いながら読み込んでいくのは面白い。その書の中の冒頭部「パリ通信」に、フランス・パリ、コレージュ・ド・フランスでの公開講座の様子が綴られている一節がある。「場所はコレエヂュ・ド・フランスの八番教室といふ、三百人くらゐ這入れるかなり廣い部屋で、・・・(中略)・・さうして来てゐる聴衆も実に雑多で、洋傘を持つたお婆さんや、薄汚い外套を着たままの老爺さんがゐるかと思ふと、ルーマニアセルビアあたりから来たやうな女学生もゐるし・・・(中略)・・・六十くらゐのお婆さんが、何にもなるわけでもないだらうに、膝の上でせつせとノートをとつてゐたりしてなかなか愉快です。」などと講座の「聞き手」を素描している。講師のポール・ヴァレリイは次のように描かれている。人物描写もしっかりなされているが、講義の様子を見てみよう。「低いけれど歯切れのいい調子で、喋る言葉には、自分の確信したことしか云はぬ力が籠つてゐて、・・・(中略)・・・あれほどの年寄りでゐながら、しかもその精神がいかにもわかわかしい積極性を少しも失つてゐない」「講義も大がいのときには、机の上に肘をついて、両手を組んだまま、落着いて喋りますが、熱してくるとやはり普通のフランス人と同じやうに色々身振りも交ぜるし、時にうまい洒落がでるとにやりと笑ひます」。
 要は「語ること」と「聞くこと」とが同時的に共鳴し、かつそれぞれが自由闊達である光景を頭に思い浮かべることができる。こういう「ことば」だけの世界には、強い「思考」と「思想」とが激しく交わりあって、語り手と聞き手の同時コミュニケーションが成立する。
 こんな世界が、今や、あらゆるところから放逐されていると実感している。だからこそ、ぼくは、講義で、ペーパー資料は配付するが、板書もほとんどせず「語り」だけの世界に徹している。その「語り」を手がかりとして、聴者が「思考」を自在に巡らせる、それが、大学の教室だと思っている。フローチャート的情報断片提示・知識伝達・知識暗記という講義における構造改革は受け入れがたい思いで日々を過ごしている。
 ガルルルル・・・。