クラムシーに拙著献本の手紙ー翻訳の依頼原稿作成

 M. le directeur de la Société scientifique et artistique de Clamecy
 Onezime-Edouard SÉGUIN(1812-1880)の生育史と業績との研究・調査のために、2003年、2005年、2009年の3回、貴クラムシー市を訪問しました。とりわけ2005年と2009年の訪問に際しては、貴下・貴機関を始めとして多くの方々に、懇切丁寧なご協力をいただきました。そのお礼を申し述べないまま今日まで過ごしてしまった非礼をお許し下さい。
 同封の書物は、Onezime-Edouard SÉGUINの生誕から1850年頃彼がアメリカに移住するまでの半生を、私が書き綴ったものです。研究・調査に際して頂いたご協力なしには産み出すことはできませんでした。日本語で書き綴っておりますのでフランス語文化圏の方々にお読みいただくことはできませんが、心からの謝意を込めて献本させていただきます。
 末尾になりましたが、貴下ならびに貴機関のますますのご発展をお祈りいたします。
2011年8月某日

追伸
別紙にて、同封いたしました書物のタイトル、内容柱を示しておきます。研究過程で新しく「発見」した資史料などのうち幾つかは写真収録をしておりますので、必要に応じてその箇所(ページ)と説明とを記しておきます。

書名:知的障害教育の開拓者セガン〜孤立から社会化への探究
発行所:株式会社新日本出版社、東京
発行年月日:2010年3月30日
本文全230ページ

内容構成

はじめに
関係略年譜
序 章 イディオの孤立から社会化への道
第一章 エリートをめざして
  寓話化された育ちの環境
  父Jacque-Onézime SÉGUINと母Marguerite UZANNE
  Onezime-Edouard SÉGUINの誕生と生誕の地クラムシー
  Auxerreのgrand-mère maternellの家とCollège Jacque Amyot  
(本書63ページ写真説明注記)
 パリに出る
(63ページ写真に関わる説明)
 写真はセガンのgrand-mère maternellの家があった跡地。セガンは『1846年著書』(Traitement moral, hygiène et éducation des idiots et des autres enfants arriérés au retardés dans développement, agités de movements involantaires, débiles, muets non-sourds, begues etc.. Chez J. B. Baillière, Paris, 1846.)p.267で ’si l'on prive les enfants ordinaires de cette chambre à eux, que j'avais chez ma grand'mère et que mon père déjà avait supprimée, ‘と書いている。さて、grand'mèreとはgrand-mère paternelleかgrand-mère maternelleか、どちらだろう。調査の結果、Auxerreのancien 2 rue des Belle-Filleで1827年9月26日に死亡したgrand-mère maternelle、Marie Agnès PERONNIERであることが判明した。
 こうした調査の結果、Onezime-Edouard SÉGUINは誕生後は乳母に育てられ、続いてgrand-mère maternelleの所に里子に出され、家庭教師について古典を学んだのち、Collège Jacque Amyotに就学したと判断できる。
第二章 社会の変革を求めて
  1830年7月革命
  サン=シモン主義者、セガ
  芸術評論の執筆
  社会変革への闘い
  二度目の革命
  “L'union fait la force.”―le CLUB DES DROITS DU TRAVAILLEURの組織 
(本書121ページ写真説明)
(121ページ写真に関わる説明)
 Onezime-Edouard SÉGUINが社会変革の運動に何らかのかかわりを持っていたということはこれまで語り伝えられてきた。その具体を明らかにするのが第2章の課題であるが、これまでの研究ではまったく触れられてこなかった史料(1848年2月革命当時のポスター)をフランス国立図書館の蔵書の中に見いだすことができた。p.111所収の写真もご覧下さい。
第三章 イディオの社会化のために
  ある出会い
  新しい指導者を得る
  イディオ教育開拓の社会的背景
  記録書と指針書の作成
  教育施設の創設
  l’hospice des Incurablesのl’Instituteur des Idiots
  ビセートル救済院へ
おわりに (特別な説明)
(特別な説明)
 「おわりに」においては、19世紀半ば以降、O.-E. SÉGUINの白痴教育がアメリカや日本に大きな影響を与えたことに触れているが、他のことがらにも触れていることは強調しておく必要があろう。それは、SÉGUINの死後の1894年7月4日、フランス医学アカデミーがその日の総会で、セガンをmenbre corespondant étrangerとして、全会一致で選出したことである。このことによって、セガンは、フランス医学界において着せられていた<不名誉>な外套が取り払われ、名実共に、「白痴の教師」として復権した。
  翻訳 Conseils à M. O… sur l’éducation de son fils. (1839).
  主な引用・参考文献
  あとがき