我が国の名前文化は仮名表記と漢字表記とを一致させない現象が続いている

 ここ5年ほどの間に―あくまでもぼくの実感レベルの話だが―、漢字は音でも訓でも読むことができるが、さてそれが人の名となると、まったく「読み」がはずれてしまう、という現象が強まってきている。
 我々教育関係者は、自分が教える対象者の「名前」をいち早く覚え「人相風体」と一致させることが求められる。イヤ、ぼくは教師を志望する学生に、そう教えてきている。「教育実習に行ったら、まず何よりも、生徒の名前と顔を覚えなさい。」
 ところが、ことぼくにそれをあてはめることができるかと言えば、現状はノーである。老化現象が甚だしく記憶暗記能力に強烈な衰えが来ているとしか思えないほどに、昨今、学生の名前、そして顔を覚えることができない。イヤ、正確に言えば、顔はすぐに覚える。だが、名前という主体というか属性というか、それがまったくぼくの頭の中に居座らないのだ。覚える気にならないと言ったら語弊があるか。
 親(親に限らないだろうが)がどのような思いで名前を付けるのか。音が先にあり、漢字が後にくっつくのか、その逆か、それとも意味から音と漢字とを選ぶのか。そういうぼくの戸惑いなどどこ吹く風の名前と、今日も出会った。仮名表記と漢字表記とを一致させないのだ。それは、最早、名付けた者の主観にかかわらず、第三者からすれば「記号文化」でしかない。そのような文化社会は、我が国以外に、あるのだろうか。
 具体例を挙げればそのこと自体、「プライバシー」問題に引っかかろう。だから、挙げることができない。敢えて言えば、漢字で「天使」と表記し、仮名で「あくま」と振るようなことなのだが―「悪魔」は戸籍名として受け付けられないという行政判断になっているが、「天使」だと受け付けられるだろう。「読み」は届け出る必要がないから、どのような呼称であろうと、行政が干渉することはないー。
 さて、病院の待合室―。病院の係員の目は「患者」が「受付名簿」に記入した「瀬田天使」という漢字表記を認めているにもかかわらず、それに「ひらがな」あるいは「カタカナ」で「せたあくま」という「読み」が振られているから、「せたあくま さま〜」と呼び出すことになる。それを聞いた他の人々は、決して「セタテンシ」を思い浮かべることはない。
 名前は社会的関係の道具でもある。だから、「名は態を表す」と言い伝えてきたのだが、「名は社会的関係を混乱に陥れる記号という名のツールである」という格言が産み出されるだろうなぁ。
 その名前を持つ彼/彼女は、自らが改名を求めない限り、生涯持ち続けることになる。