「ティータイム」

 英語やフランス語で、我が国で言う「ティータイム」はどのように表記するのか、分かりませんけれど、このブログ主幹?のぼくからすれば「ティータイム」のような問題を以下。
 ある「若手研究者」の研究助言をしていて、否も応もなく、つまり自然体で、エドワード・セガン(Edward SEGUIN)の所論と向かい合っている。所論とは、『1866年著書』つまりIdiocy and its treatment by the Physiological method.のこと( この書の序文は翻訳を試みている)。すでに薬師川虹一邦訳版(『障害者の治療と教育』ミネルヴァ書房、昭和48年)が存在するが、低学力と誹られているこのぼくが言っても何ら説得性はないが、あまりの訳文のひどさに呆れ果て、チャレンジをしたものである。お気に召す方はどうぞ、ご覧下さい。作業は序文だけで留まり、全体を訳出するにはとても力が及ばないままである。
 次の一文は、多くの教師、研究者によって、引用され続けてきた。
The hand is the best servant of man ; the best instrument of work ; the best translator of thoughts. (p.116)
 これを最初に読んだとき、ハッと甦ってきたのが、ぼくの惰性堕落化した脳髄を一撃した『手は身体の外に突き出た第2の脳である』というフレーズであった。
 「君たち知ってるかね。かのカントは言っておるのだよ、手は身体の外に突き出た第二の脳なのだ、と。あーん。」(入学したての頃の、大教育学者のU教授「教育学」の講義にて) それを聞いて、「何があーんだ、えらっそうに」と強い反感を持ちそれっきりその授業に出なくなったのだから、「脳髄の一撃」によって、すぐさま、しっかり生きることを決めた!というような、ありきたりの自己覚醒にならなかったのがアホがアホである由縁だが、「脳髄の一撃」は、ぼくのセガン学習の中で再び甦ってきた次第。
 ちなみにこの一文は、薬師川訳本では、「手は、人間の最高の召使いである。そして、最善の道具であり、最善の翻訳者である。」(96ページ)となっている。workもthoughtも訳出されていない。困ったものだ。セガンの思想構造がこれではどん崩れとなってしまう。
 高度に発達した近代社会の教育は、時間割、教師、教科書、教室を「四つの神器」とする。「手」の出番はせっせせっせと教科書をめくり、ノートをめくり、ノートを取るところにこそある。あとはそう、「自分は先生に同化してますっ」の証拠表示である挙手道具。まさか、カントさん、これらの行為を「第二の脳」としての「手」に委ねるべきだと言っているのではありますまいね、あーん。
 セガンは言う、「手は人間の最善の召使い、手は仕事の最善の道具、手は思考の最善の翻訳者。」と。さらに、nature is his book, and his fingers are the printers.(原著:p.182)とも。薬師川訳ではbookに「教科書」の訳語を充てているけれど(訳書:p.152)、はて、どうでしょうか。
 セガンの言葉をこうやって拾っていくと、セガンは、間違いなく、「生活教育」の実践的先駆者であった、と評することができよう。「感覚教育」の系譜に置かれているけれども、もっと広い、質の深い教育史的位置づけができるように思う。