「手は人間の外に突き出た第二の脳」第2弾

 またぞろセガン熱に冒され始めた。熱はあるが頭は痛くないので薬は飲まない。
 『1866年著書』の前に「1846年論文」『1846年著書』を押さえきれないとセガンの「半生」を理解したことにはならないと思いつつ、彼の「教育論」を正しく理解したいという強い思いに支配されている現実にあって、どうしても『1866年著書』に意識は向かう。セガンは『1846年著書』の結びで「できることなら、白痴たちの教育というたった一つの可能性を解決しようとする中で−私はその条件を十分に見出していたのだが−、普通教育に適用可能な解決策を得るためにこそ、その可能性を普及させることが必要だろう。つまり、私は慎ましやかな領域でささやかな仕事に従事したいだけではなく、人間のための生理学的教育法のための原理を創り出したいのだ。もはやそのことについて書くことだけが残されている。」と書いているが、『1866年著書』はその「書くことだけが残されてい」た実現の書なのである。
セガン?ああ、障害児教育の人ですね。」(陰の声:だから、特殊な考え方や行い方だね。)
「アホを教育して何になんねん。学者にも経済界の大物にも、政治家にもならんやろ、無駄金じゃがね。そんなことに熱をあげんともっとまともな教育論の研究をしいや。」(ノルウエーのかの青年と同じ純血主義の精神構造。いや、遠くに目を向けなくても、我が内なる世界にウジョウジョおられますな、こういう輩。)
 こういう人はいったん思い込むとそれを修正しようという意識は起こらないらしい。そんな輩が「普通の人」であったり「偉い人」であったりするから、世の中の哲理はなかなか変わらない。
 セガンは、一昨日のプログ記事に書いたような「自然は書物」「指は印刷機」の他にも、次のように言う。
「人為的な感覚の道具が必要に応じて用いられるべきである。コンパス、角柱、さらに科学的なもの、顕微鏡等々の操作は、すべての子どもにとって手慣れたものとされなければならない。子どもたちには、26文字のアルファベットによってではなく、それらの器機を通して自然の理解の仕方を習得させよう。そして理解せずに、機械的な手順や管理、思いこみによって学ぶことを止めさせよう。/真の知識はこのやり方でのみ入手できるのである。」
「教育とは、人間と人類とにおける精神、知性ならびに身体的能力を、諸機能として調和的に効果的に発達させる手段の全体なのである。」
 十二分に「近代教育の四つの神器神話」批判を展開しているではないか。教育の普遍性についての哲理を見ることができるではないか。
 魅力溢れる「セガン教育学」である。
 セガン「1866年著書」序文訳(改訂版)再アップ