スクラップ アンド ビルド?

 セガンの生誕の地クラムシーを訪問したのは2011年8月17日。前回の訪問が2009年6月末、2年振りの訪問となる。今回のクラムシー訪問は、これまで見逃してきたブヴロン川方面から市内に入る道筋の探索を主目的としていた。市の主たる機能を担い、セガンの生家、ロマン・ロランの生家が存在する旧クラムシーは、ヨンヌ川とブヴロン川とに挟まれた地勢からなっている。
 クラムシー駅から市街に向かってしばらく歩くと、石橋に行き当たる。ブヴロン川に架かっている橋である。この川縁は昔日のクラムシーの姿をそのまま残しており、川の存在そのものや進行方向から言えば川の対岸が歴史文化を今日に語ってくれている。
 石橋から左手を伺うと、川の流れを堰き止める役割を担う木製の柵が見えた。柵は手動で開閉される。言葉で説明するより、写真で語らせよう。セガンが綴った小品「筏師たち」の場面を彷彿させてくれる。

 川は一部住宅の床下を流れている。川は城壁の外壁に沿って流れていたから、川を跨いだ住居は比較的歴史が新しい。しかし、クラムシーの新旧の歴史を跨いでいる。

 ブヴロン川の流れに沿って左右を視界におさめながら歩を進める。こんな景色が目に留まる。城壁脇外に作られた共同洗濯場跡である。街から洗濯場へと抜ける階段が当時の様子を物語る。

 ロマン・ロランはクラムシーの中世の家具職人を主人公にした作品『コラ・ブリュニョン』で、城壁と川との間の緩衝地帯に主人公を飛び降りさせて足をケガさせた場面を綴っているが、こんな城壁だったのだろう。

 旧コミュニティが切れるところあたりで橋を渡り旧市内に入る。緩やかな登り坂が城壁に囲まれた共同体の立地条件を教えてくれる。このことはクラムシーに限らず、いずれの旧共同体も同様のこと。上り坂、石畳、そして石段という地域の姿に踏み入れる度に、なるほど障害者との共生を拒んできたはずだ、と思わされる。
 さて、我らがセガン家を訪問するとしよう。クラムシーのほぼ中心部にそれは建っている。クラムシーを象徴するサン=マルタン教会塔にぶつかる形のメイン通り・グラン・マルシェを中程で左折する。現在はクロード・ティリエ通り、セガンが生まれた頃はオー・バー・プティ・マルシェ通りと呼ばれていた。さあ、セガン家……、

 なんたること!家屋右半分の一階部外壁が無残に引きはがされているではないか。子細に見ると、壁本体がブロック積みになっている。ということは、壁そのものをそっくり取り替えようという改築工事中と考えられる。2年前も、その前も、その前の前も、訪問時には、改築工事部は青く塗られたbarとして使用されていた。他の家屋部はどのような使用状況下なのか、所有者がいるのかいないのか、不明であったが、この改築工事はbar部分のみがなされていると考えられる。どのような変貌を遂げるのだろうか。とはいえ、青く塗られた外壁が剥がされたことによって、かえって旧セガン家の実貌に近い姿にお目にかかったような気がするのは、不思議なものだ。
 こうやって、歴史は変わっていくのだろう。その進行の実情を目の当たりにし、歴史研究にたずさわる身の不安定さをつくづく思い知らされた。この感慨は、数日後のパリでも味わうことになるが、このことは別に記そう。