「今、私がコーヒーを啜っているところは…」

「私は彼らの中にいます。一群が腕をむちゃくちゃに振り回し、もう一群が声を振り絞って叫び、さらに数人の者が沈鬱な様子でいます。ある者は私が声を掛けるとニタニタ笑って逃げます。またある者は、私が腕を掴むまで、いつまでも私に敬礼し続けます。さらにまたある者は私に十字を切り、手に口づけをします。もうひとりの者は地面に寝ころびます。その他の者と言えば、非常に悪い姿勢で、一部が欠落したりほとんど理解できない返答しかしません。私たちの近くでは、教室と体操場とに供されている部屋で、雄叫びを上げている身体障害者、身体不随者、盲人、ボケ老人が穴の開いた椅子に、整然と座らされています。こうした哀れな人たちが私の前におります。彼らは余生をここで過ごすのです。」
 以上は、セガンが1842年にパリ救済院総評議会管理委員会に提出した報告書(『遅れた子どもと白痴の子どもの教育の理論と実践―不治者救済院の若い白痴たちへの訓練』)の冒頭部の一節である。11歳から18歳までの10人の白痴、痴愚の「男子青少年」―この中に数人の癲癇(てんかん)患者が含まれた―に対する彼の教育実践の開始の幕開け場面が綴られている。この報告書は故中野善達氏によって翻訳出版されているが、氏はこれを「サルペトリエール院での実践」とした。この評価についてここではあれこれ言うことはせず、大きな誤認であるとだけ指摘しておく。
 実践舞台である男子不治者救済院の建物の一部―しかしメイン舞台―は、パリ・セーヌ川右岸東駅とサン=マルタン運河とに挟まれたヴィルマン公園の一画で、現役建築物として、利活用されている。名は「レコレ国際交流センター」。その名にふさわしく、国際的学際的な若者たちの宿泊・学習施設となっている。
 次の写真は東駅から見られる同センター正面入り口。フランス国旗がはためいていることで、公共建築物であると一目で分かる。

 建築様式はドイツ、フランスに点在したレコレ(Récollets)修道院。18世紀建築物。回廊で形作られる庭、日本風で言うと2階建て(一部3階建て)、屋根裏部屋を持つ。セガンはここで居室を持っていただろう。それは屋根裏部屋であったはずである。フランス革命前は男子修道院であったが、革命を経て後は、男子養老院、男子不治者救済院そして20世紀後半期(1968年)までヴィルマン陸軍病院として活用されてきた。今は回廊部が一般に開かれた「出入り口」とされているが、かつてはヴィルマン公園側が「正面入り口」であった。今でもそのフランス革命期以前のファサードは保存されている。次の写真がそれである。

 さて、2011年8月21日、私は一人の学徒、一人の書籍編集者と共に、元男子不治者救済院、現在は建築学を主体とする機関とレコレ国際文化交流センターが入っている建築物に、目的を持って入った。交流センターの方は居住空間となっているため立ち入り禁止であるけれども、建築学関係の一角でカフェ・レストランが営業されている。そこでゆったりと時を過ごしたかったからである。これは同建築物に入る表向きの理由、本当のところは、可能な限り、同建築物の内部構造を把握し、セガンの実践のバック・グランドを理解するためである。
 カフェに入ってまず気付いたことは、かつてそこは、礼拝堂施設であったらしいことである。革命によって宗教的な営みは一切禁止されたので、礼拝堂は「講堂」のような多目的利用施設に転換された。セガンが先の報告書で「教室と体操場とに供されている部屋」そのものではないのか?!ぼくは夢中になってカメラシャッターを押し続けた。…しかし、「絵になる」ような空間ではない。せいぜい、天井まで届かんばかりの窓を供することにしよう。

 カフェ・レストランは常設されている。これからもおいしいコーヒーを啜りながら、セガンが一人ひとりの子どもに言葉掛けをしている姿を空想しようではないか。