消えるセガン関連建築物

 2011年8月20日、パリ、セヴル通りの廃墟建築物の存在を確かめに行った。この建築物の存在を知ったのは2005年2月25日のこと。セガンのごく初期の白痴教育実践を成果のあるものだと認めた小児科医のゲルサンが第2代院長を務めた「病弱児施療院」(現ネッカー子ども病院)を訪問し、ゲルサンについての公的記録や当時の入院患者児童名簿の存在の有無、そしてセガンについての記録の有無を聞き取りをした。残念ながらこれらの主目的はその場ではほとんど果たすことができず、後日の課題に積み残されることになった。
 しかし、意外なところで、研究の方向が開くことになった。というのは、児童病院の所在地住所がセヴル通りであるところから、ぼくが通訳に、「セヴル通りには女子不治者救済院があったと当時の記録にありますので、そのことについてご存じのことを聞き出して下さい。セガンが白痴の教師として招致された機関の一つです。実際には着任しなかったと思われますが。」と要請した。通訳「不治者救済院はフランス語でどのように表現します?」、ぼく「オスピス・アンキュラブル」。そのとたん、ぼくの聞き取りに応じてくれていた所長補佐ジャン=ピエール・ポリアック氏が「アンキュラブル!」と声を高めて反応し、「女子不治者救済院の建築物はこの通りに面して今もあります。廃墟となっており、残念ながら中に入って調査することはできません。」と教示してくれた。
 子ども病院を出てセヴル通りをパリ中心部に向かって進む。交差点にさしかかる。左を見るとアンヴァリッドの荘厳な輝きが伺える。ぼくの足は左折せず、交差点をまっすぐ突き進む。セヴル通りがさらに続いている。やがて、高い塀に囲まれた広大な建築物が屋根部分だけの姿を現した。塀はまるで鉢巻きを巻かれた様相、その「鉢巻き」の正体は「この建築物は議会決定によって取り壊されることが決まった」という公示である。それが無数に帯状に張られていた。

 男女混合養老院、女子養老院、女子不治者救済院、市民病院と、その機関役割を時々に担ってきた、荘厳さを感じさせる―ほとんど屋根だけしか覗き見ることができないのだが―この建築物が、取り壊された後どのようにその空間が利用されるのか、その後パリ入りする度に足を運んだ。
 そしてこの夏、とうとう取り壊し工事の始まりと遭遇することになった。高く視界を遮っていた塀が工事によって部分的に壊されており、視界が広がっている。正面ゲートを抜けたところにある建物―恐らくそこが本体―をはじめて視覚に収めることができた。そしてその奥に尖塔を持つチャペル。

 ティエイエ等の収集資料集に収められている1840年11月16日付の『ル・モニトゥール・レピュブリシァン』(le Moniteur républician)紙は、「去る11月4日の救済院総評議会の決定により、パリ、ピガール通り6の、白痴児、痴愚による唖などの教育施設長エドゥアール・セガン氏は、白痴の青少年の教師身分で、セヴル通りとフォブール・サン=マルタン通りの救済院に雇われる。」と伝えている。日米で長く、セガンは「サルペトリエール院」で白痴教育を実践したと語られてきたが、その説は、ものの見事、この新聞記事の存在によって破綻したのだが・・・。
 新聞記事の根拠となる救済院評議会の当該事項に関する決定文書つまり超一級の第一次史料は、その公式綴りから剥ぎ取られたのか、行方不明のままである。だが、これもまた間違いなく超一級の第一次史料である公文書「救済院総評議会第2部局1842年6月29日決定 No 91599」―ティエイエらの史料集には収められておらず自力で発掘した―は、1840年11月4日の救済院総評議会会議で、セガンを「複数の不治者救済院(hospices des Incurabls)」に「白痴の教師(instituteur des enfants idiots)として雇用する」ことを決定していたことを明記している。この時代、パリに、不治者救済院は男女それぞれ1機関ずつ存在していた。セヴル通りのそれは女子機関であった。そして、セガン自身、「私には力が無くて、女子の方の(女子不治者救済院での)教育にたずさわることができなかった」と述懐している(セガン、1843年論文)。
 ・・・目の前で取り壊されつつある建築物に、セガンは、実際に教師として足を踏み入れたことはない。だが、ぼくには、この建築物がもうすぐ無くなることへの哀惜の念が沸いてくるのを、押さえることができないのだ。
 余計な追記だが、はじめて旧女子不治者救済院建築物を目にしたこの2005年2月25日は、ぼくにとって、「セガン研究」が大きく広がりを持ち始めた日でもある。「アヴェロンの野生児」実践第一報告書 E. M. ITARD “De l’Éducation d’un homme sauvage, ou des Premiers développements physiques et moraux du jeune sauvage de l’Aveyron” Goujon fils, Vendémiaire an X (1801) 初版本を古書店で入手した日だからだ。