「セガン研究」における「神話」性

 同僚のS教授から、茂木俊彦他訳ハナニー・ザムスキー著『精神薄弱教育史』(ミネルヴァ書房、昭和52年刊)を借り受けた。「索引を見ると、セガンがほら、こんなにたくさん・・・」ということでお貸し下さったのだ。我が国のセガン研究開拓と時期的に重なる翻訳書である。「精神薄弱」の「教育による発達の可能性」が高らかに語られ始めた時期とも重なる。
 さて、その内容だが、S教授がはしなくも語ってくれたように、ぼくの「セガン研究」は「白痴教育を開拓するに至った人物の主体形成史を明らかにする社会思想史研究」であるからして、同書の読み方も、「白痴教育」の評価にではなく、「白痴教育を提供するに至った道筋」にウエイトが置かれる。本書ではそれがどのように描かれているか、該当部分を引用しておく。我が国の開拓的セガン研究といかに類似しているかを、明確に知ることができる。pp.129ー130
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 セガンは昔からの、医師の家に生まれた。パリで彼はイタール、エスキロールと親交をもち、彼らのお気に入りになった。彼らはセガンの不屈さ、深く分析的な知性を高く評価したのである。
 セガンは哲学にこり、サン・シモンの博愛主義的見解に賛同し、人類発展の水準を高めることを志向している哲学グループの一員となった。このグループからは後になってルイ・ブラン、ヴィクトル・ユゴー、その他の著名な活動家が輩出した。
 セガンは世間から最もみすてられていた人びとー精神薄弱者の教育にその生涯を捧げた。
 1837年、医師エスキロールはセガンにイタールの経験を生かしながら、白痴の個人的教育にとりかかることを依頼した。セガンはこの仕事で大きな成功を収めた。そこでエスキロールはビセートルの精神病院にいる幾人かの精神薄弱児を研究するように彼に勧めた。1839年セガンはその病院付属の精神薄弱児のための病棟の責任者に任命された。 云々 (以下省略)
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 これらの論は1880年セガンの葬儀の際に読まれたいくつかの弔辞が下敷きになっている。ぼくが、「セガン」について当事者が語るのに初めて触れた文献でもある。ぼくは日本社会に生まれて日本的な感覚でしかものごとを判断できない質だから「人はソレ、どんな奴でもヨ、生まれた時と死ぬ時とは必ず過大な期待言葉や褒め言葉で飾られるものヨナ。」という俗論でものごとを捉えようとすることに違和感はない。
 だが語られることが事実そのものだと認めるほどにはお人好しではない。だから、セガンの葬儀の時の弔辞も割り引いて聞いてなんぼのものという斜に構えた理解をしようとした。つまり、それほんま?と考え、調べることができる案件はさまざまな手を使って調べた。
 例えば「昔からの、医師の家に生まれた」など。それに関して言えば2005年3月クラムシーに赴いて戸籍等調査を行い、「確かに父親は医師であったが、祖父の代は材木商であり、血を分けた親族には医師はいない」ことを確かめた。
 ユゴーについては何冊かの評伝を読み、文学史、政治史を紐解き、ユゴーが同書で言うような革新的な立場にたつようになったのはナポレオン3世以降、それ以前は王党主義すなわちきわめて保守的であったことを知った。だとすれば、社会変革を夢見ていた青年セガンが現実に出会う可能性のあったヴィクトル・ユゴーとは正反対の生き方をしていたはずである。ぼくは2005年に綴った小論で「両者の間には、大きな溝があるというのが私の立場である。すなわち、セガンが知的道徳的技術的教育をいわば社会への参加・参与能力の育成のためとして捉えていたのに対し、ユゴーは無知で無徳な者は暴力的な社会変革を望み社会の文明・文化を破壊する、従ってすべての人に義務教育を与えなければならないと捉えていた。」と対比させて論じた(未発表論文)。
 さらに、どう考えても、当時一世を風靡していた精神医学者エスキロルがセガンに「白痴教育をするように依頼した」という旨の記述には得心がいかなかった。1837年といえばセガン25歳、学歴調査によって、医学部には在籍したことはなく法学部の「落第生」でしかなく、かつ教員資格も持たない青年に、精神医学がようやく手がけ始めた白痴治療の一環としての教育を委ねるはずはないではないか。 
 こうした「やぶにらみ」をずぶの素人がしても、誰も相手にしない。例え相手にする人がいたにせよ、「それは常識です」という、「常識」という安全―神話―地帯からの苦言が出されるだけでしかない。
 正直言って「これが研究の世界なのか!」と呆れた。神話地帯に生きていながら「セガン研究をしている」と自称する人にとって、「白痴」の教育可能性を実践的に探究した人という、中近世で言えば魔術師に相当するであろう人物は、端から神がかり的な存在、無謬的存在でなければならないのだろう。まさに「宗教」そのものだ、そう言っては叱られるだろうが、そうとしか言いようがない。無知が生む直観も、時には鋭い本質を突く批判となることもある。
 同僚からお借りした書籍の全体像としての歴史的価値は非常に大きいものだろう。教育や生活(福祉)の埒外に置かれ続けてきた「精神薄弱」(白痴)を、社会的存在として明確に位置づけ、社会化のための教育の可能性を明らかにしているのだから。しかし、ことセガンの「主体性形成」に関しては中近世神話の世界そのものである。とりわけ、セガンがビセートルの付属の関係病棟の責任者に任ぜられた云々のくだりは、嘘も嘘、当時のフランス医学界の権威や組織性をまったく見ようともしない妄想でしかないのだ。
 ぼくのこのような気づきと同質であるとは恐れ多くて言えないが、セガン研究のそれまでの到達に資史料を添えて変更を求めるフランスの社会史研究家と精神医学者とがいることを、やがて知ることとなる。その二人、前者はギ・ティエイエ、後者はイヴ・ペリシエとの名を持つが、彼らの生資料発掘の大きな努力は、セガン没後100年(1980年)を期して傾けられ始めた。ほぼ同時期、アメリカでは、前述のようなセガン無条件礼賛、虚像・偶像化の動向はほとんど訂正されることなく世界に向けて発信されて続けていたのである。そして我が国のセガン研究には、基本的に、このアメリカの動向の受容の姿勢を強く見ることができる。
 近年、ようやく、ティエイエ・ペリシエ両人によるセガン評価―それは実像に近い―が受け入れられる動向がある。だが、それを単なる文章による「お題目」的な表現に留め、実質は過去の亡霊セガン像にしがみつく自称セガン研究が、まだまだ目につく状況にある。
 とても「セガン生誕200年(2012年)」を記念した行事を開催するほどの力を持たないセガン研究の世界状況である。