続8月17日クラムシーもバカンス中

 オーセールに降りてK君に教わった手順でM君がオーセールークラムシー間往復切符を購入してくれた。これだから日本人男性大人、とりわけ大学教授は生活自立できないんだな。いつもこういう場面でそう思う。食事の注文もそうだし、色んなところに入場するのもそうだし。決してお付きの者でもないのに、自身のことをお願いして解決しようとする。でも、結構高尚なホテルの赤絨毯をビニールに入れた自身の下着をぶら下げ持ち歩き、「洗濯してくれる人を探しています。」というような行為は、ぼく、絶対にしません。…と、こういう脱線話ならいくらでもネタ、ありまっせ、でも、先に進みます。…と、これで、クラムシーに行き、オーセールに帰ってくることができる条件は揃った。で、話はクラムシーへとすっ飛びます。
 クラムシーと言えば近世から近代半ばにかけて栄えた産業風物がある。主たる消費元をパリとしたペチカの薪材を産し、それを筏に組んでパリに輸送する「筏流し」である。薪材を筏に組んで運行する職人を「筏師」という。次の写真はクラムシーの入り口、ヨンヌ川に架かるジャン=ルーヴ橋(これはかつての名前だったっけ…)に据えられた石像の筏師。橋は旧市内(右方向)と旧郊外(左方向)とを結ぶ。

 旧郊外は「バヤン」と通称され(正式名称は「フォブール・ベトレーム)、かつて、筏師集落であった。拙著『知的障害<イディオ>教育の開拓者セガン』ではそのあまりにも油絵的な美の姿をモノクロ写真で紹介したが、折角のブログ手段、総天然色!で再び紹介しよう。ついでに、居住集落の奥まったところも。


 ほぼ廃屋状態だが、「売ります」や「貸します」の看板がぶら下がっている家もあった。次の写真の中央部の白く四角い部分が「売り出し中」の看板である。

M君が「先生お買いになったらいかがですか?」という。この言葉は、パリ市内の高級地でも、オーセールの最高のロケーションの家でも出されたが、その真意は、ブログにしばしば登場する「貴婦人」やら「姫様」やらとの同居ハーレムにしてはどうか、という進言だ。「私には財産がありません、私は千石イエスではありません。いや、それよりも、同居ハーレムは仮想現実のブログだけで結構でおま。」とキッパリ返答した。それにしても、クラムシーに家を構えるというのは、とても魅力的だなぁ。
 話をこういう風に進めるのではなく、「筏」にまつわる現在についてだった。
 2003年、「清水寛先生と行くルソー、セガン、21世紀平和への旅」でこのクラムシーに約40人の集団が訪問した。折角のクラムシー訪問だから、何か記念になるクラムシーらしいお土産を、とガイドが気遣ってくれたのが、筏を形取ったチョコレート菓子。それの形状はあの「小枝」のようだったが、大人気商品、「1年分以上の売り上げがたった30分で…」とは店のマダム。
 その時の一員で、隅っこで小さくなり威張っていた小汚いムッシュが、今日は主役で来ましたよ、と店に立ち寄ろうと考えた。そして店先は路上喫茶店にもなっているから、体を休めようと考えた。…が、ここも正しいフランス家族でありました。
 やけになったわけではないけれど体と心を休めたいぼくとM君は、すぐ近くの、16世紀建築だというハーフティンバー現役家屋―それはロマン・ロラン通りに面している―前のカフェで腰を下ろし、しっかりと歴史遺産と対面した次第である。でも、保存の意志があるのか無いのか、何ら案内もないし、すぐ近くで平気でたばこをふかし、吸い殻はぽい捨てされておりましたな。そうであっても500年以上現役の木造建築なんだなぁ。

 その後、町中をブラブラ、クラムシー歴史文化博物館(ロマン・ロラン記念館)に立ち寄り、原始の昔から現代に到るクラムシーの歴史を始めとし、筏師コーナー、ロマン・ロランコーナーなどをざっと見、過ごし、クラムシー駅に向かったのでした。