「セガンは古い人」なのではないのだなぁ

 大阪の若手研究者Tさんからメールをいただいた。指導教授が「今度、哲学会で「セガンとモンテッソーリ」について、発表するんだって。福祉から教育への流れに関してらしいけど。」とおっしゃたとあった。発表する人は日本教育学会の偉い人のようだ。ぼくがセガン研究にのめり込んでいる姿を見て、「今さら何故セガンを」という声を頂戴したが、学問的興味対象としての「セガン」は「今さら何故」というわけではないようだ。はたしてセガンの「白痴教育」を「福祉」という範疇で括っていいかどうか、ぼくは疑問に思うけれど。Tさん、びびるな。
 この夏のセガン研究の旅の間中考え込んでいた「これからのセガン研究、取りあえず来年2012年をどう迎えるか」について、今朝いただいた某先生よりのお便りに「「写真でたどるセガン紀行―フランス篇」(仮書名)、上梓して下さい。」とあったたことに、少し心が落ち着いた。出版社も金もないけれど、写真だけは山のようにある。それを選り分け、セガン研究紀行を構築することで、ぼく自身に決着を付けることができるだろう。
 「主体形成史」などは誰も振り向きもしない主題だろうけれど、生まれた時から事業が決まっており、決められているのは「世継ぎ」の社会制度だけであり、この人間世界、とりわけ近代以降は、さまざまな事業に携わる、事業を興す「主体形成」によって世の中さまざまなことが構築されているのは、間違いのないことなのだ。