写真記録のための端書き(下書き)

 「エドゥアール・セガン(Édouard SÉGUIN)」という名は、我が国の教育界では、知的障害教育(白痴教育)の本格的な開拓者として、比較的よく知られた名前である。「ああ、それなら、エドワード・セガン(Edward SEGUIN)ではありませんか?」という問いが出されるかもしれない。近年まで、彼の人生行路に関しては、アメリカでのそれに対して、フランスでのそれはほとんど知られてこなかった。そのこともあって「エドワード・セガン」を知る人は多く、「エドゥアール・セガン」を知る人が少ないのだろう。「エドゥアール」はフランス名、「エドワード」はアメリカ名、同一人物である。1812年フランス中東部ブルゴーニュ地方で生を受け、1880年アメリカ・ニューヨークで波乱に満ちたその生涯を閉じている。アメリカに渡ったのは30才代の後半期、1850年頃だと言われている。
 以降の記述では、煩雑を避ける意味で、必要な時以外には、この人の名を単に姓「セガン」のみで呼ぶことにする。
 何故セガンは、フランスでその名が存分に語られてこなかったのか。旧ソビエトのある研究者は、フランスでの開拓期のセガンの教育が観念的であったことに、その理由があると指摘している。だがそれは、セガンのフランス時代の教育実践・教育理論を、その時代の実情に即して、存分に検討した上で出された見解ではない。
 1980年10月9日、パリ、ラ・サルペトリエール病院で開かれたセガン没後100周年記念シンポジウムで、興味深い報告が幾つかなされている。その一つ、「人間セガン」に関して、「セガンが優れたさまざま人たちによって認知され、評価されたことは確かであるとしても、彼は、多かれ少なかれ、攻撃され、排除されたことも確かである。ある時期彼は、どうにもしようがないほどに攻撃的かつ偏執的な振る舞いをしていたことがある、と言われる。しかしまた、その攻撃性は、実際にはみな、攻撃への反論であった、とも言われる。」(ルイ・ベルによるまとめ、「セガン没後百年」より)というのが、とりわけ興味深い。つまり、フランス時代のセガンは、「攻撃され、排除され」、それへの反論行為として「攻撃的、偏執的な振る舞いをした」というのである。そう言えば、1880年の彼の葬儀に際してアメリカ時代に得た知人の一人が、セガンは、自らの利益・不利益に関することについて評価される際はいつも穏やかに対応していたが、他者が不利益を被るようなことに対しては、人が変わったように激しく抗議した、と述べている。
 この気性故に、セガンが「その出自であるフランスにおいてはほとんど知られていないかまったく無視されている。彼が1850年までフランスに住んでいたということさえ知られていないし承知されていないことさえある。」扱いを長く受けてきたのだとしたら、フランスという国・社会は狭量だと言わざるを得ないけれど、そこに結論を導くのではなく、何故にセガンは、ある時期、「攻撃され、排除された」のか、そして何故にセガンは「攻撃への反論」をしたのか、を考えてみるべきであろう。
 「攻撃され、排除された」セガン像を、セガ研究史ではどのように描いてきたのか。恐らくそれを探し出すことは、近年までは、非常に困難であったはずである。というのも、エドゥアール・セガンという人物像は、概要すれば、次のように描かれてきたからである。敢えてダラダラ表記にしてある。
 代々が医者である名家に生まれ、両親の自然主義的な養育方針の下で幸せな子ども期を送り、パリに出て以降は医学校で内科・外科を学び、そこでアヴェロンの野生児で有名なイタール、次いでその時代の精神医学の大家エスキロルの薫陶を得、一人の白痴の子どもの教育に成功して世界の賞賛を得、フランス政府の要請を受けて、フランス・パリの大病院「サルペトリエール院」に収容されている白痴の子どもの教育を手がけ大きな成果を上げ、またやはり大病院「ビセートル院」に新設された白痴の子どもの部署の責任者に任ぜられ、その実践成果は科学アカデミーで高く評価され、彼の教育実践には、フランス国内に限らずアメリカ・イギリスなどの各国から多数の参観者があった、彼はまた、恵まれない白痴の子どもたちの養育を身銭を切ってなし、社会的政治的活動も盛んにした、そして、政治的理由(「亡命」)によりアメリカ合衆国に渡り、アメリカの同志に熱烈歓迎された。
 たとえ「ある時期」のことであったにせよ、「攻撃され」それに対して「反論をした」ことは、上の概要からは微塵も伝わってこない。もちろん、刻々となされるセガン研究において新しい史料の発掘も進み、今日では、実像が少しずつ姿を現してきているとは言えるが、「攻撃され」「反論した」ということの本質は不明なままである。
 2010年3月に上梓した拙著『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン―孤立から社会化へ』(新日本出版社)は、こうした問題に迫るべくセガンの半生史を綴った。これは、セガンの「主体性」(「気性」)の因ってくるところとその表れの具体とを明らかにする意図を持って執筆した。また、拙稿「「イディオの教師」の誕生とその意義」(日本育療学会編『育療』50、2011年3月)はセガンの白痴教育開拓が医学管理下でなされたこと、セガンはそれに抗して「白痴の教師」の医学からの相対的自立を求めたことを綴っている。
 以降のページは、私のセガン研究の足跡を写真で綴っている。フレームの外とフレームの中とがまったく異なった世界でないように可能な限り写実に徹したつもりである。ほとんどが「現代」を写し取っているが、「同時代性」へ迫る努力はした。足りないところは文章や史料で補っている。
 私は聴覚に弱さがあり、会話コミュニケーションに不自由を覚えている。そうした困難性を補って下さる友人たちがいなければ、「行って、見て、聞いて、調べる」という研究方法論を駆使することも、その手段の一つとしてのカメラワークも、できなかった。
 また、当該地において、快く取材に応じ、調査の便宜を図って下さった方々がいなければ、何ほどのことができたろうか。このような意味で、本冊子は、多くの方々の共同研究によってなっている、と言わなければならない。
             セガン生誕200年を前にして   川口幸宏