セガン生育史研究に関わって

 Kiri-n先生から、津曲裕次論文「知的障害児教育の開拓者エドワード・セガンの家庭及び生地についての研究ノート」をお送りいただいた。同論文は2008年発表。同氏論文「セガンとその教具について」は2010年発表。ぼくが2010年論文のみ目を通しただけであれこれ批判していたのをご覧になり、わざわざ、Kiri-n先生が2008年論文をお送り下さったわけである。
 今日はその2008年論文を丹念に読んだ。2010年論文ではセガンの生地をオーセールとしているのに対し、2008年論文ではクラムシーとしているなど、津曲氏の中で事実認識に混乱があるように思ったのが第一印象。その混乱の源がいったい何なのか、これは津曲氏にお尋ねするしかないけれど、とりあえずは2008年論文(結果的には生地クラムシーに関する記述で留まっている)で主として利用されている文献が、清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター、2004年)の第4巻(第5部資料編が収録されている)のセガン年譜(フランス時代)及びその注解であり、その記述の信憑性を求める他の幾つかの文献であるということが分かったので、その草稿執筆者は「清水寛ら」とされたぼくであることから、津曲先生が疑問を提出しておられる件ならびに明らかに当時のぼくが事実誤認、清水寛先生に妥協をしている点について、箇条書き的に綴った。お読みいただくべく、明日、郵便にてお送りする。
 それにしても、セガンと「出会った」のが2003年5月。それから半年後に「第一級の年譜を作成して下さい」というご依頼(ご下命?)を清水寛先生からいただき、様々な大きな制約の中で、執筆した(同年11月下旬に「執筆準備に入る」と日記に書いているが、それより1ヶ月後の12月25日執筆開始、第一次稿の出来が年が明けた1月11日。我が人生の中でこれほど集中して執筆作業をしたことは他に例がない)。何よりも大きな制約が問題意識欠如、資史料探索きわめて不十分等々、主体の力量不足であったこの作品は、寝ても覚めてもセガン年譜という状況の中創りあげられたものであるが、今では一刻も早くこの世から消してしまいたいものである。そんな思いをしながら津曲論文点検の作業をした今日の午後半日であった。
 主体の力量不足は、自身の理論的哲学的確信無きものとし、力強き者への妥協を生みだしてしまうのだ。
☆2003年12月28日に、こんなことを綴っている:
「終日セガン関係。年譜作成の続き。ビセートル総合救済院解雇まで終了。これまでを清水先生に(ファックスで)お送りする。セガンのバックグランドを知りうる限り、推測をも含めて、注記するようにとの指示。クラムシーの風土、近代化と共に筏師が姿を消していくこと、ロマン=ロラン家とセガンの父が親交を結んでいたこと(これには強い抵抗を覚えたが、渋々従う)、コレージュの歴史(現在との性格の違い)、リセの歴史(現在との性格の違い)、大学(université)と学部(faculité)との違い、などなど。年譜を独立した「セガン研究」にしたいとの清水先生の意欲。これから何が飛び出すか、「清水爆弾」。時間との戦いの段階であるので、できる範囲は限られている。しかし、今後のセガン研究者、ならびに研究を志す若い人たちへの、方法論的示唆を提示したいというのは、ぼくも共通した思い(意識が高揚していると「思いおごり」に気付かない)。夜は、フランス語の原語を〔〕書きで示す作業に当てる。」