雑記

その1 出勤時、柔道場の近くでΣ君と出会う。Σ君曰く、「9月になったら先生のところに相談に行っていいですか。」 もう9月に入ってるぜ。 Σ「授業が始まったらです。」 何だい? Σ「卒業してからも教職の勉強したいんで、その相談に。」 授業で大いに助けて貰ったΣ(「困った時のΣ頼みだものな。」とは授業中のぼくのくり返される発言)、今度は困った時の「先生頼み」。不可を優にせよという頼みさえ聞くかもしれないな、オメエなら。Σ「不可なんて無いですよー。」 なら、いつでもどうぞ。月曜から金曜日、授業と会議以外の時間に。
 Σ君と別れて研究室に向かう道すがら、にこやかな男女3人組が少し離れた向こうから挨拶をくれた。教職課程履修者。彼らの笑顔を見ていると、また授業で会えるな、という希望と期待とが沸いてくる。不思議なものだ、普段はブツクサ、文句垂れているのにね、互いに。
その2 ディスクに保存してあるセガン関係のファイルを整理していたら、2003年11月始めに、ティエイエ・ペリシエのセガン史料集(「子どもの精神医学の開拓者・・・」)の訳出作業が出てきた。がんばったナー、この頃。で、その第一ファイルの第1行に、セガン家は代々医者の家系、とある。ぎょっ!今でこそぎょっとするが、当時は鵜呑みだったから注さえ付けていない。それにしても、もっとも信頼するティエイエ・ペリシエのセガン伝がそういう書き出しだったのだあ。後、色々と気を惹く文章がある。これも当時のぼくには「猫に小判」だったのだなぁ。問題意識がないと、せっかくの宝物も、ただの記号の羅列、横のものを漫然と縦に直すだけの作業なのだな。やはり、何度も読み返す必要があります。
 これらの訳文は、出来上がるとすぐに大先生に、ファックスでお送りしていた。
その3 媛様が職場を早退して我が研究室を訪ねてこられた。引っ越しして初めてのご訪問。「綺麗じゃない。」 えっとですね―。まだ一年しか経っていないから、それで汚いと言われたら、困ってしまいます。職場の配置換えのことやら職場での外国議員の接待・接客やら、出張やらのお話を伺う。こうして日本は動いているんだなぁ。もちろんぼくも、フランスでの10日間の行動について、お話申し上げた。「夕ご飯どうなさいます?」「軽いものを」「では日本蕎麦など」、ということで、急きょ錦糸町の丸花に電話を入れ、いそいそと出かけました。前回の連れは姫様、今回の連れは媛様。じっちゃま、満足じゃ。たくさんたくさん、手作りの美味しいものをいただいた後、天ざる。この後デザート、フルーツが出ました。「軽いもの」を通り越しました。和君、お母さん、いつもすみません。
その4 自身へ
1. セガンはパリに出るとき、どのような交通手段だったのだろうか?
 時代的にはまだ鉄道は走っておりませんから、考えられることは以下のことです。
(1) 徒歩
 陸路で200キロといいますから、少年の足だと10日間ぐらいはかかったのでしょうね。文学などで登場する徒歩旅行−とりわけパリを目指して遊学する場合−を選ぶ事例はほとんどが貧乏学生。一文無しという状況で家を出ます。ですから途中で路銀を稼いでいるわけです。≪ルソーもその放浪の旅の道で、どうやって路銀を稼いだのでしょうか?≫
(2) いかだに乗って川くだり
 これはセガンに固有に考えられる方法です。薪商人のお孫さんですから、苦もないことでしょうし、徒歩よりははるかに安全です(転覆の可能性はありますが)。もっとも、薪商人のおじいさんは、セガンが生まれた時には、とっくにこの世にいない人なのでした。あてになりませんね、この手段も。
(3) 馬車に揺られて
 馬車にもいろいろとあったようです。セガン家は馬車を所有していたようですが、生活用の馬車と旅行用の馬車とは別なはずです。裕福な層の馬車、中層程度の馬車、徒歩とはいかないまでも、それでも下層の馬車・・・・。
 このようなことを考えるのも、もしセガン伝のようなものを書くとしたら、どうしても触れないわけにはいかない問題です。裕福なセガン家が、セガンが家を出るとき彼に託した「形」はいったい何だったのだろう。とても知りたく思います。私は、やはり、ルソー的なものをセガンの思春期に重ね合わせることはできないままでいます。
 ぼくが故郷を離れて東京に出た時は夜行列車でした。朝早く東京に着きましたが、お茶の水ニコライ堂の屋根に、何故か、胸を熱くした思い出があります。セガンはパリの何に胸を熱くしたのでしょうか。