こんな声があった。

「2年生の前期で道徳教育の研究を履修していました。川口先生の講義は2度目です。変わらず歯切れのよい言葉をポンポン発していらっしゃり、なんだか安心しました(「安心」という言葉が適切なのかは分かりませんが、また先生の講義を受けることができて嬉しい気持ちを形容するとそんな感じの言葉が浮かびました。)」
 ぼくの導入語:「こんにちは。久しぶりですね。ここにいる人は元気そうに見えます。ぼくもそう見えるでしょ?本当のところは互いに分かりませんね。でも、元気そうに見える所から授業は出発します。相も変わらず、ぼくのしゃべくりがメインテキストです。板書はしません。活字資料はたっぷり配ります。何が大切かは自分で捕まえて下さい。それから、シラバスですが、シラバスは受講者と聴講者の契約内容と理解されますが、これ書いたの一年前のことね。一年間の間に教育情勢、生徒指導に関して、生もののごとく、蠢いています。その蠢きを無視してシラバス通り授業するってこと、本当に有効かな、という疑問を持っていますので、とりあえずシラバスから離れて授業をします。本質的な所になったらシラバスに戻ります。…」
だから、しゃべくりこそが授業の命。あの―その―、そして―、は、命の発露を邪魔します。だからといって、漫才、落語、バナナの叩き売り、セールストークとは異質です。それと、端的な話題(素材)。それが学生の心内に波紋を呼び起こすことを願っています。その波紋が提出されるのが「感想、意見、つぶやき」という学生の声。リアクション・ペーパーなどとしゃれた言い方にはなじまないものです。そして、それらの「声」が次回、講義通信で紹介されます。