アホ鶴の目に涙

 今朝ポストを開けたら朝刊と「フランス教育学会」の封筒が入っていた。封筒には「フランス教育学会紀要第23号」(2011年度)。タマネギスープをすすりながら目次を眺めていたら、ぼくの『知的障害教育の開拓者セガンー孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)の「書評」の文字が眼に入った。ワォ!
 評者は北海道の藤井力夫先生。セガン研究の大先達。大学教授の職を投げ打ち知的障害児者施設の運営に辛苦しておられる、まさに「現代のセガン」というべきお人である。2005年7月に、清水寛先生の編著書『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター。2004年)出版と同書による学会賞受賞をお祝いする会を学習院大学文学部大会議室で開催した折の、参加者のお一人。お目にかかったのがそれが最初であり、それ以降お目にかかっていない。
 拙著には公私さまざまな御批評をいただいている。それはそれでありがたいが、ぼくが拙著執筆(セガン研究)に寄せているぼく自身が持っている「課題」に迫って論じられたことは、残念ながら、ほとんど無い。「何でお前がセガンなんだ。転向か?」「研究方法としてはいいが詳しすぎる」等々。さて、藤井先生はどのように御批評下さっているのか。・・・次の一節で眼から滴がこぼれ落ちた。
「生活綴方研究で知られる著者が、なぜこうした研究に接近し得たのか。2003年、清水寛らとセガン研究のため彼の生誕地を訪れたことがはじまりとのことだが、日本における生活綴方教師の実践や、教職教育のあり方に深くこころを寄せてきた著者だからこそ実現できたと考える。障害児教育史研究、あるいは児童精神医学、社会学研究ということではなしえない、何かがある。時代も国も対象も違うが、言葉をもたない「イディオ」と呼ばれる子どもたちが、どのようにして内面を「表現」できるまでに、導くことができたのか。セガンという一青年教師の歩み、その必然性を明確にさせないではおけない、日本の綴方教育・一研究者の凄さを感じるのである。」
 そして、「本書により解明されたセガンの実像は、サン=シモニストとして位置づけられてきた理解よりも、はるかに実践的で、「社会権」、「労働権」の実現を求めた、果敢な青年であった。イディオ児の教育方法の開発にあたっては、子ども自身の能動性を引き出すべく努めただけでなく、それをさらに「公的な機関」で実践すべく、自ら関係大臣に直訴するという、きわめて論理的で意欲的な青年であった。」というくだりでは、ぼくが清水寛先生からいただいたご高評(『しんぶん赤旗』書評)に噛みついた本質的なところをえぐって下さっており、胸のつかえがすっかり取れた感激を覚えた。
 藤井先生は「折しも来年は、生誕200年で、本書は、世界的な評価を受けることになるであろう。」と評して下さった。あまりにも過大なご評価をいただいたが、細々と進めているセガン生誕200年記念の「セガン研究報」作成作業に対する、大きなご援助をいただいた思いである。