流れるごとく

 珍客来室。英語、スペイン語のプロフェッショナル。本学で非常勤をお願いしている方。20年前にはぼくのクラスでステキな意見を述べていた方。
 「おや、どうなさったの?」
 「息子を入れようと思っていた学校が今回の震災で経営が困難になりつつあり、別の学校を考えています。」
 「たいへんですね。で、どこの学校へ?」
 「和光はどうかしら、と思って。説明会にも行って来ました。」
 「それはいいですね。和光の校長を始め、幾人かはぼくの大切な友人です。日常の交流はないですけれどね。信頼置くことができる実力教師が集まっていますよ。」
 今日の客人が出ていたぼくの授業の中でも「教育原理」では、和光を始め和光的な実践を多く紹介したものだ。
 「多摩川で魚取りをしたり、銭湯巡りをしたり、それから沖縄にも行くんですって。」
 「それ、みんな、先生方の教材研究の大きな成果ね。あと、ぼくのやり方に似たことをしている先生もおられるはずですよ。」
 「講義通信ですね。それ、とても貴重な教材だと思っています。」
 こうやって、「生活教育」の精神が身体に流れているのを確かめることができた今日の昼時。教育の本質が大きく歪められ、凝り固まった型(鋳型)にはめ込まれる「人間形成」が大手を振っている今日、  「子どもから出発する教育」の考え方を真っ直ぐに受け止めている「親」の存在を尊いと思う。
 「日本の生活教育50年」(日本生活教育連盟篇、学文社)をお貸しした。「この中に、和光教育の本質がたっぷりと見られますから。」