愛と誠の物語

 教室のドアをおそるおそる開ける。一体何人の受講生がいるのか。教職課程履修者全員が、否応なく、ぼくの「生徒指導の研究」を取らなければならない。2年生以上が対象者。毎年毎年、教職課程履修有資格者はおよそ350人誕生する。「生徒指導の研究」は毎年3クラス開講しているから、単純平均でも1クラス100人以上はいることになる。今年度は後期の水、木、金と開講。すでに金、水は授業を行った。その2クラスの総計学生数は150人ほど。すると、木曜の今日の授業は150人は遙かに超えるはずである。・・・それがドアをおそるおそる開けさせたのだ。が、教室には50人ほど。ゆったりとした感覚。これであればぼくは声を荒げることは絶対ない。よっしゃ、「生活指導」を心ゆくまで語ろうではないか。
 「管理だ厳しさだ、言うことを聞かせなければならない。」教師自身が「生徒指導」に構えをしている。「そうあることこそが生徒指導だ、と。」待てよ、ぼく自身が受けてきた学校では「生活指導」と言った。「生徒指導」とは言わなかった。大学に入って教育学を学んだ際「生活指導論」だった。(この先生は「ガイダンス」と言っていたっけね。アメリカ帰りのエロおじさん。「川口、研究室に遊びにおいで。」誘われていくと、「税関くぐり抜けてやっと持って帰った向こうの写真だよ。」とヌード写真を何枚も見せてくれた。ショックだったな―。あとは、ネリカンブルースをとても上手に歌っておりました。ぼくをそっち方面にガイダンスしてくれようとしたのかしらね。) ぼくが大学教師になって教育学系の学問を教える際、専門としていたのは「教育方法(生活指導)」だった。この時は徹底して学生の声を拾った授業をしましたっけ。ここへ来る前、つまりぼくにとって二つ目の勤務大学でも「生活指導論」を教えた。つい20年前のことだ。デ、ここに来て「生活指導」という授業科目はなく「生徒指導の研究」となっていた。それ以来、公的文書には「生活指導」の文字はない。・・・
 こんな枕からはじまった授業。「生徒指導は教育行政から提案されている概念。一応権力的強制力を持っていると理解されております。それに対して生活指導は我が国の教育現場の実践の中から生まれ定着した概念。このクラスでは、行政用語をまったく無視するつもりはないが、生活指導論を語ります。副題を付ければ、「愛と理性の教育」となります。「温かく見守ることと丁寧な言葉掛けで方向付けをすること。徹底した人間に対する信頼があります。それはまさに理性的な営みです。その原点を失ってしまって、生徒がやれ何々したから丸々しなければ、などという目先の「変化」しか追わない教育現象になっている、それが体罰容認に容易につながるわけです。我が国は体罰を明治の初期から一貫して禁止している理性を重んじる教育を尊重しているのであって、どこかの国々の、宗教的戒律を絶対善とし、その戒律の中に殴って育てるとする理念が綴られそれが守られてきた、ということとはそもそも人間を捉える土台の違いがあるわけですね。そういう中から生まれた「生活指導」をぼくはこよなく愛しいと思うし、守り育てていきたい。大阪府知事橋下某、東京都知事の石原某とかその他右派先祖返り風潮煽り者達には「独裁」と「服従」という言葉しかないことも、どうしても指摘しておきたいこと。
 こんなレクチャーをした。他のクラスとは大違いですなぁ。授業終了後、ぼくの誤情報提供を質してくれた女子学生、「先生の授業、ここにはとても珍しい、心に響く言葉、素敵な語りがいっぱいあるので、好きです。そうふうに言う人、多いですよ。」とおだててくれたけれど、図に乗らないようにしましょう。このクラスの講義通信タイトル「愛と誠の物語」漢字にルビが振られます。パトス、ロゴス、ヒストリー。さて、学生もぼくも、どう成長していきますか。
 今日の「声」より:「理性」という言葉はとても重く、またその言葉を語る先生のゆるぎなさ、優しさをすごく感じます。