カップの表面にクマさんが…

 卒業生のIさんが研究室を訪ねてきた。何か朗報を携えてきたなと思いながらにこやかに応対したら、「今日はとくに朗報がありません。先生の声が聞きたくなったから。」と言う。うーむ。この声の音質は悪くはないという自負があるが、この声の性質は極悪だというもっぱらの評判だがなぁ。
 話はいつしかそれぞれの思春期時代に。Iさんが史学科出身であり、また教育実習で古代国家のところを教えたということもあり、ぼくは思わず身を乗り出した。そして懐かしの絵日記「鶴福猩が古代を旅した」をプレゼント。それから「荒れた思春期」と「自らが探す思春期」のぼくの二面性の思春期を語ったところ、Iさんの表情が非常に和らいだ。「私は存在していいんだと、はじめて思えました、今日。」と感想を漏らした。荒れた方はともかく、小学校から中学校にかけて、親や教師の指示ではなく自らが山に入りシダ植物採集を行ったことや級友とドイツ語クラブを組織し多少の活動をしたことや、高校時代に古代史「発掘の遊び事」をしたことなどに共感をしたようだ。あらゆる意識が大人・教師によって組織され、その組織内でくたくたになるまで活動することに汗を流している現在の大半の子どもたちを、Iさんが学童保育の活動の中で見ていることから、日ごと感じていることだったからであろう。
「介護等体験中で、お昼は病院の給食。だからおなかぺこぺこ!」「あいよ、なに食べたい?」「お肉、いいですか?」「オー、牛、大丈夫?」「はい。」「じゃ、ベロとシッポは?」「嬉しいです。」 ということで、牛タンやさんに出かけ、牛タン定食をいただいた。
 食後、「スイーツしようか。」と誘うと、ケタケタ笑いながら、「似合いません。その言葉。」「だよね。だったら、コーヒー飲もう。甘いものも一緒に。」ということで、茶店に入りほんの少し時間を過ごし、再会を約して、お別れした。「次にお会いするときは、バーンと、景気よくやりましょう。」 Iさんの注文・カプチーノの表面には「クマさん」がおりました。