ある受講感想−やや長文ですが

 「生徒指導の研究」 叱り方、しつけ方、姿勢の正し方、スカートの寸法に神経使う仕事・・・こんなイメージを経験値で培ってきている学生たちに、夢と愛と、そして理性とをどのように身につけ、「人格形成」の仕事に誇りを持ってもらうか、毎年毎年、悩まされる。第一歩の段階を終え第二歩にどう進んでいくか、考えに考え、いや違う、悩みに悩み、ぼくがかつて青年教師に宛てて書いた長文の手紙を朗読し、ルソーの「エミール」を語った。それを踏み台にして、「互いに教えあい学びあう学習・生活集団作りこそが教育実践の課題だ」とつなげていく予定であった。
 とある学生から、長文の「受講感想」がメールで送られてきた。これほどぼくの講義内容、姿勢を理解し、正面からぶつかってくれる学生が、かつて、どれほどいただろうか。いや、たくさんいたのだろうけれど、ぼくのアホな感性では掴むことができなかった。ガンと一発、喰らわされた次第。
 是非、このブログの読者にお読みいただきたく、全文掲載します。大切に見守っていきたい真実の声だ。
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 昨今、自分の主義主張を全面に押し出した要求をする親が教育現場の混乱を引き起こすケースが多発していると報道されている。しかしながら、問題の本質は“モンスターペアレンツ”という造語に象徴される親のみに集約されるのではなく、教育者のスタンスにも問題があると考える。
 なぜならば、大前提として学校とは全ての子どもを受け入れる公共空間であり、生活価値観の多様性に満ちた空間であるからである。この多様性のるつぼの中では、子どもにとって、教師とは“豊かに生きる”即ち主体的に生きるとはどういうことなのかを考え模索する時間を共有する存在である。また親にとって、教師とは我が子の生命の輝きを託した存在である。当然、誰だって我が子は可愛くて仕方ないし、その思いに沿った行動をとる。
 このような空間の中で教師に求められるべきことは、“聞きわける”という力であると考える。意識的行動として“聞き分ける”ことによって、教師は小さな命の輝きに寄り添い、「人間としての信頼」・「教師としての信頼」をかちとり、教育による人格形成という最終目標へと歩を進めることが可能になる。
 しかしながら、実際の教育現場の話を耳にすると、「どうやって言うことをきかせるか」「学校の方針に反抗する子をどう処分するか」などと白か黒か二極論のような教師の権力の行使の有り方に関連する悩みが色濃いように感じる。
 ジャン・ジャック・ルソーによれば、“青年期は人間にとって第二の誕生”である。即ち、人間は本質的に理性を培って、大人の鋳型ではなく、自らの意思で社会をつくる存在である。だとすれば、今日の教育現場で“モンスターペアレンツ”という造語に全責任を転嫁し、本質的に失われつつあるのは、“人間を理解すること”と言える。
 川口先生のお手紙の中に流れていた通奏低音はこの“人間を理解すること”であり、涙を誘う素晴らしいエピソードに終わらず、教職課程を履修している者たちへというよりか、数年後には確実にこれからの日本社会、国際社会の担い手となる私達への熱いエールであったように感じる。
“人間を理解する”とはなにか。人間とはわけのわからない存在だから興味があり、時折、やってられるかと逃げ出したくなる。裏返せば、自分の人生が豊かになること(授業)であれば、自主的に参加する(授業に)ということでもある。新人の魅力は、本人そのものが悩みを抱えている存在であるからこそ、他者への理解を示そうとし、互いに分かり合おうとする姿勢をもっている所にある。“生徒理解に始まり、生徒理解に終わる”という言葉にあるように、ピンポイントではなく、集団文化をいかにつくるかこそが教師の力量であり、教材研究・「どう教えるか」の本当の意味は後から付いてくるものである。
 黒か白か二者択一ということはない。グレーだっていいじゃないか。多様性の相互作用で新たな豊かさが創造されるその根底にある“人間を理解する”ことこそ、グローバリゼーションの奔流の中で生きる私達に求められていることであり、次世代を担う子どもたちに伝えていくべき大切なことである。