眼鏡、仏、「近代」

jittyan2011-10-22

☆HP扉写真を更改。今回の「旅」はパリだが、ちょっと趣向こらし、自らの内面そのものを描いてみた。ご覧下さい。
☆ 眼鏡を注文しておいたのが出来上がってきた。今その眼鏡を掛けてモニターを見ている。
☆午後から中山法華寺へ秋を探しに出かけた。まだまだだなぁ。大仏と五重塔を携帯で。画像が小さい場合には、画像を左クリックして下さい。拡大できます。


☆昨日の来客との会話の中で、セガンが白痴教育の道に入り、教育に成果を挙げたことの訳が分かったと、来客は言う。それは、ぼくがその場で差し上げた、生誕200周年記念のために書き下ろした「セガン生育前史」を短時間でお読みになった感想語だった。来客は続けて言う。「乳母に育てられたから母親とのスキンシップが欠落したため、愛情に飢えるということが分かっていたからだ。」と。それは違うでしょ。現代を生きる者の家族観で言えば心理学的にそう説明できるでのしょうが、150年も前のこと、「家族観」が異なるだろう。今の感覚で昔を判断するのはどうでしょう。来客の言いたいことは分かるけれど―あまりにも、現代社会で、来客が言うような事象が多いからー、私は「今」の感覚で「昔」を評価しない。なぜなら、これまでのセガン研究がまさにその問題を抱え込んできたから。「セガンが教えた子どもは知的障害の程度がそれほど重くはなかった。私が担当した子どもは・・・」というような歴史感覚を欠如させた形で「セガン」を理解することは大きな誤りだと思う。ぼくは「共時性」という概念を用いてこうした問題に迫る必要があると提起したことがあるが、昨日は、まさにそのことを強く感じた次第。
 ぼくに、現代の実践的な課題と問題処理のあり方を持ってこられても、そもそもそのような研究課題を持ちもせず、嫌いな言葉だが「臨床」もしていないから、困ります。