観念的にでも「自由」を求めないのだろうか。

 授業で、「自由であることは真理に近づく思いがする」という子どもの「声」を紹介した。共感を寄せた声もないではないが、「子どもに自由を与えるとどうなるか。」という強烈な否定論が提出される現実がある。確かに、電車の中など人混みの中で気ままに、いやするがままに振る舞う現実と多く出会う「都市現象」の中で暮らしており、かつかなり近い将来、日本の学校教師になることを考えている若者からすれば、「そんな自由など認められない」のだろう。しかし、そういう気まま現象は「子ども」だけに限ったことではない。
 「批判」を「否定」と理解し、「批判されるのが怖い」という彼らからすれば、「自由」は常に「批判」的関係の中でこそ実在しうる、という実存主義にさえ身を置くことはできないのだろうか。
 若者とは「絶対的自由」という観念の世界に恋い焦がれる存在である、という世界観に出会うことは無いのだろうか。
 あまりにも現実主義の大きな声に出会うと、この爺様は、しっかりと腰を曲げて、隠居世界に閉じこもってしまいたい思いに駆られる。「おらぁ、不自由だがや。」
 ああ、そうだ。E.H. フロム『自由からの逃走』は「自由」を手放した向こうにファシズムが待っていたことを書いていた。なるほど、今の我が日本を説明するに格好の書物かも知れない。