そんなに「社会」は怖いのだろうか?

天才バカドンの歌をアップ。2000年度パリ滞在生活中に投稿した作品。川口幸宏の教育の旅
☆人生に重荷を背負うことは誰にでもあるが、唐突にそれに襲われたら、辛い、とてもつらい。今日、二人の若い知人がそれに見舞われたとの知らせを受ける。ぼくはどんな手も差しのべることができない。
☆授業終了後教卓のところにお嬢さんが一人やって来た。ぼくと話をしたかったという。抗議ではなくぼくの本当のところを確かめるために。30分余の話の中で、お嬢さんの頬を涙が伝い落ちた。叱ったわけでもない。ただじっと聞き耳を立てていただけだ。大切な存在である人を喪失したその苦しみを今も背負っている。「今度は先生のお部屋を訪問します。」と明るい声で教室を出て行ったのが救い。
☆「生徒指導の研究」で蒔田晋治先生の「教室は間違えるところだ」を学習しているが、(その精神を受け止めて学級通信づくりに来週から入る)、「社会に出たらどうか。一つのミスで信用を失い、そのミスが人生を左右することもあるのではないか。そういった点を考えると中学生だからといって、間違えることに対して肯定することは、自分にはできない」という声が出ている。蒔田先生の詩をきちんと読み取ることができず、部分読みの部分だけを取り出して物言いをしているのだが、本音が強く出ている。事と次第では言っていることはあるが、「社会」だって完全無欠主義ではすぐに崩壊する、ということも理解しなければならんだろうが。それにしても、作品のコアをきちんと読む取る能力が無く、部分だけで全体が分かった振りをすることこそ、「信用を無くする」根源だ、ということぐらい知っておきたいね。この声はただ一つだけではない。そこに、時代の強迫観念を感じてしまう。
☆こうやって肩肘張って生き抜こうとしている若者もいる。ぼくはこうした若者を「逞しい」とは少しも思わない。ポキッと折れはしないかと、馬鹿鶴ははらはらする。ポキッとと折れた若者の姿をあまりにもたくさん見てきたが故に。
★自主ゼミ「授業研究会」は「牛タンを食べる会」に変更。3人のお嬢さんと賑やかな一時を過ごす。肩肘張らないけれど、人に媚びず、自身を逞しく育てたいと願い仲間と学びあう姿に、蒔田晋治先生の詩をダブらせてみる。こうした生き方を求める女性を、若い男性(に限らないか)が敬遠するという話は、授業での光景とダブっており、真実みが帯びていた。牛タンを食べる会の後、寸時、サテンで。ぼくはアートコーヒーを注文。でもこれっきり。
 「私、どんなに広いテーブルでも、先生の隣に決めてるの。」というAIちゃんは、いつもぼくにからかわれる。「かわいい孫なんだから、爺ちゃんの世話を焼くのかと思ったら、爺ちゃんが気を遣ってるぞ。」
 カプチーノカップを口に運ぶ時、AIちゃん:「クマさんの頭の方から飲んでね。」 手首をねじって頭の方に口を持って行ったけれど、すぐに、元の位置へ。
 馬鹿鶴曰く:「クマさんのお口の方から、ぶちゅっ、ずずずずーーーーっ!」 お嬢さん三人、サテンに轟く大声で、笑いこけました。そんなに面白かったかな。