休日出勤

 今日は遠出ハイキングを予定していたが取りやめにし、研究室で来週の授業準備。講義通信作成作業。
 授業内で発言を求めるとなかなか声が出ない。少人数ならばどうかと思って5人のグループを構成させるが、よく見ると、まったく議論に参加しない者が少なくない。たった5人しかいないのに2人で別の話をぺちゃくちゃやっている者も少なくない。しかしペーパーにすると、ほぼ全員が書く。実名記入に抵抗を示すのはほんの数人だから、匿名性を求めているわけではないことは、分かる。
 「しゃべることには抵抗があるが書くことには抵抗がない」 これは、識字率が(国際的に見て)極めて高いから「書く」という表現手段に対する障碍はないことを示している。しゃべることも書くことも、我が日本は、道具としては完全に具備しているわけだ。なのに、なぜ、その道具を使いこなさないのか。
 生活綴方が成立した一つの要因は、しゃべること(face to face)のもたらす権力性を超克する手段として「書くこと」(間接性)に意義を見出したところにあった。しかしそんなことはもうとっくの昔だろうと思ってはいるものの、目の前のほぼ全員の学生が綴っている現象と、ディスカッションの静けさという現象との大きな乖離は、今もなお、生活綴方成立要因と強く結びついていると考えざるを得ない。だって、学生たちが言う、「批判されるのが怖い」と。ペーパーだって批判は十分になされる可能性があるが、そちらは、「体温」を実感することが少ないために、ダメージがないようだ。
 かといって、「考えることさえ放棄」している「文字面」を見なければならないのも、つらいのだけれどね。