労賃はいくらなりや

jittyan2011-11-15

 セガンそのものから離れてその時代の文化史・社会史を見つめてみようということになって、さて、タイトル、題材、対象は何にするのかと考えると、やはり、セガンが1841年に発表した小品「筏師たち」(les flotteurs)だろう。
 薪材を主要な消費目的とする樫の木枝で造った「トラン(train)」と称する「筏」を「生産地から主要な消費地であるパリにまで運行する職人を「筏師」という。「トラン」には一人の「筏師」と一人の「助手」とが乗り込む。ここまでは、セガンの「筏師たち」で理解でき、また近年地元で発行された研究書でさらに深めることができる。薪材で作る「筏」の生産地をクラムシーだけに限定することが誤りであることも、これらの研究物を通して知ることもできている。セガンの父方じいさまは、クラムシー在住ではなくクーランジュ在住の薪材商であったことも、これですっきりした。無理矢理クラムシーに結びつける必要もなかったわけだ。ヨンヌ川沿い、ヨンヌ川の支流沿い、そういったところに、「筏」を出航させる「港(port)」がいくつもあった。
 さて、「筏師」たちの生活ぶりはどの程度であったのだろうか。クラムシーに今も残る居住街区の様子からはきわめて貧困層を形成していたと推測される。薪材商の使用人だったのか、それとも独立する「職人」(Ouvrier)だったのか。このあたりが気になっていたのだが、今日、おそらく決定づけると言っていいであろう古文書をフランス国立図書館の蔵書から見出した。「薪材に関する商人間の1731年5月19日の取り決め」(概略題)によれば、「筏師」をOuvrier、「助手」をGargne-dernierと呼び、運行する距離に応じて労賃を支払うことにしている。例えば、アルム-クラムシーからパリまではいくらいくら、クーランジュからパリまではいくらいくら、という具合に。ちなみに、クラムシー〜パリは総額31リーブルとある。31フランだ。今のお金に換算するとどれほどになるのだろう。
 この、いくらいくらの部分が、当時の職人賃金と比べてどうなのか、前払いなのか出来高払いなのか、そういったことを知る必要が生まれてきた。あーあ、道は遠いなぁ。
☆手許に『職人事典』(JCG. 2008)があるが、「筏」はあるけれども「筏師」はない。「目的地」への案内にもならない記述内容。
★男子学生が来室。埼玉高校英語の教員採用試験2次に合格したとのこと。落ち着いた授業参加をしていた好青年である。おめでとう。
★夜は「エミール」読書会。現在、登録メンバーは7人。全員女子。