捨て子について〜『エミール』を読むために

 今日は『エミール』読書会のメンバーに宛てて綴ることにしよう。
     ★
 古い時代から捨て子の問題はある。
「16世紀まで、家庭の扶養を受けられず見捨てられた捨て子や孤児は、領主や住民共同体の世話と費用により、病人や貧民を受け入れる救済院で養われた。」
 救済院に直接「捨てられる」のではなく、「夜の間に通りにうち捨てられたり、教会の入り口に置き去りにされる」新生児が多かったと言われる。その捨てられていた子どもは一般住人が「拾い」「届ける」ことは禁じられた。
「パリの通りで捨て子が見つかった時には、地区の監視委員や通りかかった別の地区の監視員の他は、何人もそれを拾い上げてはならない。」
 これは、捨て子を売買するのを禁止する目的が強かったと思われる。捨て子は「子どものいない夫婦」にとっても「物乞いをする大人」にとっても好事であったからである。とくに後者の例では、子どもの手足を切り取り(つまり不虞者にし)、通行人の哀れを誘うということが頻繁になされたという。一般民がもし捨て子を「拾う」場合には、必ず育ての乳母を捜し出さなければならない、とされていた。また、乳母制度に関わることであるが、乳母が預かった子どもを死なせた場合に、その代替として捨て子があてがわれることもあった。
 1656年に総合救済院が設立されたあとは、数多くの子どもが、その一つであるラ・サルペトリエール施療院に送られ、4歳まで養育された。救済院の入り口には捨て子用の無人受け口が設置された。施設のない地方の小さな共同体では、パロワス(教区=宗教共同体)の周辺に十字架が立てられており、通常、そこが子捨ての場所とされた。
 18世紀はもっとも捨て子の数が増えた時代である。ルソーがわが子5人を捨てたというその時代こそ、フランス社会では子どもを育てることが非常に困難な世相となっていた。我が子を我が手で育てることができないにしても子どもは社会の力によって育てられる。そういうフランス社会の長い「捨て子」に関わる各種施策が大いに活躍したことはいうまでもない。我が手で育てて飢え死にさせるか、我が手から離してどこかで生きてくれるか。その選択を迫られたのがフランス庶民の実生活であった。
 なお、乳母について触れておかねばなるまい。
 乳母もまたきわめて歴史が古い。乳母はきちんとした職業である。だから、きちんとした取り決めがある。身元がはっきりしていなければならないことは当然である。「乳母は一度に二人の乳飲み子を育てることを禁じられて」いた。つまり、乳母は、自分の子どもは自分の胸から離さなければならなかったわけである。では、乳母の子どもたちはどこに行ったのか?パリの場合だと、かなり離れた地方へと「預けられた」という。つまり、乳母の子どもはまた乳母に預けられる・・・・・。これを繰り返していくと、行きつくところは、子捨てしかなくなるわけである。少なくとも、制度的にはそういうことになる。で、冒頭に戻って読んでほしい。
 ついでながら、ルソーが書いた『エミール』はけっして飢えることのないブルジョアや貴族の夫人に宛てられたもの。家庭教育の書と概括されてしまうが、数多い貧困者のための家庭教育の書ではなかったことを視野に収めないと、「子捨てをしたくせに子育ての書を書いたけしからん蝙蝠人間」という一面的、非現実的、非歴史的評価になってしまう。ルソーが書いた『エミール』が一般の人々の読み物、すなわちそこで描かれている家庭教育像、そして家庭婦人像となるのは、執筆より100年、いや150年・・・さらに後のことなのである。そういう意味では、ルソーは予言者であったと言うべきだろう。