薪材運搬

 1766年7月31日のパリ法廷でのある判決は薪材流通にかかわって起こった交通事故を裁くものであり、興味深い。判決が興味深いのではなく、パリに到着した薪材の流通方法、経路を示すものとして、興味深い。
 パリから東南約200キロの所から川の流れに乗せて運行される薪材の筏(長さ約30メートル!)がパリに到着する。そこで筏は解体され薪材として、いったんは薪材商人(総元締め)の倉庫に貯蓄される。その後、薪材小売商の手に渡り、行商人によって、手引き荷車―ぼくの手持ちの資料類では大八車の絵もあればリアカーの絵もある―でパリの街で売り歩かれる。こういう販路であったことを知ることができた最初の史料が、この判決文である。
 セーヌ川沿いの港から港へ陸路で薪材を運搬する業務は、どうやら、パリ市役所の獄に繋がれている受刑者によるものであったらしい。彼が荷馬車で薪材を運んでいた。ルートはお定まりであるはずだが、どうやら彼は「抜け道」を試みたようだ。そこへ薪材小売商の荷馬車が通りかかり、出会い頭でぶつかった。しかし、小売商もまたお定まりの道を進んではいなかった。両者共に、今日でいう交通違反のあげく、事故を起こした、というわけである。
 判決は、両者共に責任有りで、500リーヴルの罰金刑が言い渡されている。この額がどれほどの「重さ」なのか今のところ不明であるが、この頃、クラムシーからパリに運行する筏師に支払われた作業賃は総額30リーヴルと記録にあるから、500リーヴルは相当な負担額だと推測される。そして受刑者にも小売商にもとても負担が出来ない額であったのではないか、とも推測する。
 未知の世界への門が開かれ始めた。もっとも、誤訳に基づく理解だとしたら、史実をゆがめてしまうことになる。慎重に進めたい。