疲れたなぁ

 今日の午後はとにかく忙(せわ)しなかった。午前中10時から100枚の印刷を頼みたいという学生からの依頼は、ゴミ出しの日でもあり、さすがに断ったが、出校後、あれこれと忙(いそが)しかった。
 午後の授業の準備、明日の授業の準備(半分)、授業。
 授業終了後、3人の学生が、それぞれ別件で研究室を訪問してきた。「ちょっと行き詰まったので愚痴を言いに」という男子学生。年に数回とも言えないほどの面談だが、大きな節目には訪ねてくる。あと一人は、亡父君のことで、話したいことがあるとか。しっかり聞き耳を立てておりますよ。もう一人は依頼していた原稿を持ってきてくれた。このことは後述する。6時から「サロン・ド・ラ・ヴィ」。当てにしていたメンバーが風邪のため、文献に沿った談議は取りやめにし、「我いかに生きるべきか」が自ずとテーマになる。新人お嬢一人と、出発メンバーで今は修士論文の追い込みで多忙のためなかなか参加できないでいるお嬢さんと、リーダーのお嬢さん、そしてぼくの4人でわいわいがやがや。この世界も女世界。今年のぼくは女性にのみ囲まれて、ごーーーーくたまに、同性学生がふらりとやってくる、という環境下にある。これを文字世界では「恵まれている」と綴っておくのが安全なのだろうな。
 原稿を持ってきてくれたのは理学研究科のS君。かつて、まるで科学論文のようだ―主観的評価を綴らず、客観的なことのみを淡々と綴る、という意味―と拙著を評しくれたことがあり、若々しい感性と文体で、是非、「セガン研究報」に書評を執筆して欲しいと依頼してあったのが、「とにかく完成させてきました」と持ってきてくれたのだ。「この本はぼくらのような立場の者こそが読むべきだと思います。」と言いながら、原稿を渡してくれた。セガンの青年期の「自分探し」に自らを重ねることが出来る、というのがその趣旨。「そうだといいですけれどね、入り口にまで来ていただくのが大事(おおごと)ですからねぇ。」ぼくと同じような問題関心で教育研究をしておられる人達も、書名で、端から自分とは無関係だと決めているほどだし、いくら「青年期の自立の問題が主題だ」と説明しても、ページを捲ろうともなさらない方がほとんどなのだから。そのことから考えると、S君には感謝しなければならない。書評は研究方法論に視点をあてて書いてくれている。タイトルは端的に「点と点をつなぎ合わせ、真実を見つけ出す」。ありがとう。
 「セガン研究報」は論文をあと一本残すのみ―本当はもう一本執筆をお願いしたけれど、当人は「執筆しますと言っていない」と、反論召されるだろうと(何せ自分の要求はお出しになるけれど、他者の声は耳に届かないお方だから)、原稿催促はしていない―、これも今週明けにはぼくの手元に届く、と今日、通告があった。来週には完成見本が出来上がり、印刷と製本の段階に進む。今日、大先生に作業経過を報告した際、「これでやっとこさ、私自身のしたいことを思いっきりすることが出来るようになります。」と申し上げた。これは大いなる嫌みでもあるのだけれど、言わずにはおられない。