…「・・・・読んでいません。」
某出版社の偉いお方から電話があった。
「セガンを是非シリーズに加えたいと思っております。××先生からの強いご推薦がございましたので、よろしくお願いします。」
某出版社の偉いお方は『教育・国語教育』の復刻の仕事でたいそうお世話になった方だ。その頃のことを懐かしく思い起こした。著作権を持つ関係者に復刻の許可を貰うために、宮城の山奥までご一緒したこと、出版間近には社に泊まり込んで編集・校正の仕事をしたこと、等々。そういう濃厚な思い出があるだけに、この電話は受け取りがたかった。
「結論を申し上げますと、私はお受けいたしかねます。××先生はご自身がおやりにならなかったことを私がし遂げたことを以て『世界的な仕事』と評価下さっていますが、世界はもっともっと大きいのです。それと、監修者の○○先生とはこの間数次書簡の往復を致しましたが、その先生のセガン研究に関わって私のお尋ねすることについて何ら明解にご返事下さらないでいます。そういう大先生の下でセガンについて書くことなど、愉快なはずはありません、私が至らない人間であるにしても、です。ましてや、私は『福祉』についてはまったくセガン研究に被せる目線を持ってきていません。○○先生監修のトピックは『福祉』、これじゃ、たとえ私が執筆するにしても、読者を欺くことになりますでしょう。」
「とにかく一度お目にかかり、お話しをさせていただきたい、と…。」
「それじゃお尋ねします、編集者のあなたは、私のセガンに関する著書・論文を一篇たりともお読みになっておられますか。」
「・・・・・・・読んでおりません。」
「では、この話はなかったということで。失礼します。」
出版社の編集者も地に落ちたものだ。編集者は依頼する予定の執筆者に「惚れ込んで」、(嫌がる)執筆者を口説き落とすのだ。当然、その口説きは、執筆予定者を知り抜いて、惚れ抜いてこそ成果がある。読みもしないで「お願いします」というのは、「当社の企画はこのようなものです。この企画に是非乗っていただきたい」という「当社側論理」の押しつけでしかない。こんなことを日常的にやっているとしたら、「有名な人だから読み手がいるだろう」という「あなた任せ」の商売でしかない。そして「商品」の質も下の下の下…と、どんどん落ちていく。こういう下降文化に与したくない。