サロン・ド・ラ・ヴィ忘年会

☆「毎回、先生の授業中は、自分の心の奥に圧縮して小さくしてある熱い思いのような、素直な気持ちが湧き上がってきます。」これはサロンに集う者の声ではなく、授業の履修者から寄せられたメッセージ。四角四面の理論・科学の向こう側にある「人間性」を見出して欲しいと願って行っている授業なので、こういったメッセージに対して、ひねくれ鬼の目に涙。
☆Salon de la Vie。日本語にすると「人生サロン」。何だか怪しい、じゃ、かっこよく、ということでフランス語のネーミングになった自主ゼミ。何かしら語りたい、その場はサークル・クラブでもなく、恋人・友人関係でもなく、もちろん授業においてでもない。何でもありの自由な社会と言われるが、意外や意外、その自由はきわめてせせっこましく、関係する者だけに自由であって、閉鎖的なのがほとんど。そういうところで窒息をしたお嬢たちがぼくの研究室の、それこそ意外や意外「開放性」に惹かれて集っているのがサロン・ド・ラ・ヴィ。ぼくのかわいい孫たちだ。いや、ひ孫かなぁ…。
 このサロンには皇室縁のネームを持つお嬢が複数人いる。それでぼくは、それぞれを「○○さま」と女性週刊誌風愛称で呼んでいる。もっとも女性週刊誌は電車つり革広告の記事タイトルを見ているだけなのだけれど。
 昨日は、このサロンの発起人であり、皇室縁風のファーストネームの「愛子さま」が、「この2週間落ち込んでいました。ガッコに顔を出しませんでした。」と忘年会2次会の席で切り出した。―落ち込んでいた様子は研究室に姿を見せたときから分かった。こういう時には下手に声を掛けず、そこにいていいよ、というシグナル=沈黙で応対する。しばらくしてソファーから起きだしたら、確かに泣いていた痕が見られた。― 「大人になれ、もっと大人になれって言われるけど、大人って何?」「そういう奴はオレは偉いんだと、えばって自己満足をしたいだけだから、相手にしないの。」「そっか」「マジ、傷つくんだよね」まるで皇室縁のネーミングとは相反するであろうとステレオタイプ視するようなやりとりがメンバーの間で交わされた。昨日の忘年会の席でもお嬢たちの間で交わされた、「普通じゃん」「常識じゃん」と切り捨てられてしまうことへの苦しみと同質である。
 閑話休題:駅ホームでうんこ座りしてあたりを「下から見下ろしている」女子中学生?群の間から「それって普通じゃん。てめー変じゃん」という会話が漏れてくると、「てめーら、普通って言葉、使うんじゃねえ!そんな資格ね―だろうがっ!」と怒鳴りたくなる馬鹿鶴ではあるが。
 現代のお嬢は、その苦しみを、外装(化粧や持ち物のことね)で消そうとしているのかなぁ。家の壁を白く塗り直しても柱や土台が傷んでいたら、すぐにひび割れます。柱、土台を自らが自らの力で再構築するのを温かく見守る社会が必要だと、つくづく思った。「がんばれ」だの「がんばらなくていいんだ」だのの傍観者的発言ではなく、ね。