研究室にて

○『セガン研究報』を印刷・製本に回すのは21日になった。
○あるところで発言したことに対し「質問」メールが届いた。珍しい。以下は「回答」の一部。
「さて、ご質問ですが、「生活綴り方とは何か」に及ぶところかと思いますが、子どもが今を生きている環境的心理的実在(生活)―「貧困」に限定しない―を、子ども自身の「言葉」で綴ることによって、子ども自身が自身のために「自身を捉え直す」、つまり、自身の生活を自身の言葉で綴る(表現する)という作業が「綴文としての生活綴り方」(つまり「表現」)であり、それを学習共同体(例えば「教室」)で学習材として学びあう、という作業が「学習活動としての生活綴り方」であると、私は歴史研究の立場からとらえています。このことを端的に指摘したのが、アメリカ人教師メアリー・キタガワ先生で、夫君との共著となっている『making connections with writing(邦訳題:書くことによる教育の創造』だと思います。それは、彼女が実践をしており、英語圏で見られるホール・ランゲージと共通しているという主張ですが、私もまったく同感です。
 生活綴り方(表現の質)をどう捉えるかは多様であるべきだと私は思っています。「北方性教育こそが生活綴り方だ」というお立場の方が主流かと思いますが、私はそういう風潮に反旗を翻して、生活綴り方教育の歴史を研究してきております。」
 要は「匿名」を脱し「実名」で自身を捉え表現し、社会と交わることを進める教育が「生活綴り方」だと捉えている。歴史概念でいえば「概念崩し」と「観念づくり」。