ある往復書簡より

 往復書簡というのはちと大げさ。昨日、東海地方の大学院生からいただいたメールへのぼくの返信がぼくの研究姿勢等の根幹に関わる、という問題故、きちんと捉え直したい。以下概要。
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 メアリー先生の原著名を間違ってお伝えしていたことに昨夜気付き、訂正メールを差し上げなければと思っていたところ、さっそく返信いただいたメールできちんとご訂正いただいておりました。ありがとうございます。まず、Oさんの「思い込み」を訂正させていただきます。失礼な点がありましょうが、お許し下さい。
> > 生活綴り方に関するたくさんの著書をお持ちの先生
という「思い込み」に関しては、全くの誤認でございます。生活綴方という名を冠した著書はただ一冊であり、若気の至りできわめて政治主義的で、現在読む気にもなりません。ただ、「北方性教育」に戦前生活綴方のすべての特徴を象徴させていた研究史に対する実証的物言いであったことについては誇りに思っております。(中略)日生連を始め「自由作文」という概念を用いて新しい教育実践が開発されています。「自由作文」とはフレネ教育でいうテキスト・リーブルの直訳ですけれど、めざすところは私の用いている概念「生活綴方」と同じです。伝統的な用語―それは自らの文化の歴史的検証でもあります―を採用せずに借り物概念で実践をなさっている理由は簡単です。「生活綴方」という概念を「北方性教育」、あるいは「社会矛盾を告発する主体形成」の方法概念として理解されているからでしょう。果たしてそれでいいのか?というのが、先の私の批判意識の根底にあります。
> > 私はもともと社会学が専門ですが、社会学でも最近はライフ・ヒストリー研究がライフ・ストーリー についてのナラティブ研究と関係して盛んに行われるようになってきました。先生のセガン研究の視点は、社会学のそのような動向に通じるものがあり、大変興味深く感じております。
 私は「社会学」には疎くまったく動静について知っておりませんが、「社会史研究」には影響を受けていると言っていいかもしれません。それも2000年にフランスを舞台とした研究を進めるようになってからのことですけれど。パリ・コミューン研究が私にとっての社会史研究の第1弾、セガンが第2弾ということになります。
> > 書くことによる教育の創造―アメリカ人による生活綴方教育の研究 メアリ・キタガワ 共著, 川口 幸宏 他訳 , 大空社 ,1991 訳本は残念ながら絶版のようですので、ぜひ図書館で読みたいと思います。名古屋大学にありました。
 同訳書は埼玉大学勤務最後の頃、私の研究室で日々談笑していた学生・院生たちとの共同作業ですので、訳語等が硬く恥ずかしい限りです。また、私自身語学の「天才的落ちこぼれ」(AK先生評)ですので、原著でお読みいただくのが一番かと思います。ホールランゲージを「単元学習」として捉え評価している好著に桑原隆「ホール・ランゲージ」(国土社)がありますので、是非お読みいただければと存じます。
> > 書くことで自己と対話し、それまで考えること無くすごしていた自己に関する状況を対象化して熟考すること、結論が出るかどうかは根本的な問題ではなく、書くことによって考えること、それによって新たな状況をの可能性を呼び込むことがポイントなのですね。だから、自分の置かれている状況を本音で語ることが必要なのですね。
 ご理解いただき、ありがたく存じます。
> > 私は聞いていないのですが、今年8月に行われた日本教育学会で都留文科大学の田中昌弥先生がナラティヴ探求と綴り方教師の実践との親和性を述べられたようです。外国の魅力的な教育実践を研究されている研究者は細かな違いよりも共通点に目を向けているようで、そのほうが生産的だと思います。教育は一回性のものなので、一般化することはできないのでしょうが、本質を見極めたいという気持ちで一杯です。
 私は、人間関係づくりが苦手であるところから(難聴者ということでもありますけれど)、学会等にはまったく関わっておりませんので動静については認識しておりませんが、Oさんのおっしゃることには強く同感いたします。
> > それからこれは余談ですが、若い人が繰り返し訴える、見知らぬ人に自己表出することに対する過剰なまでの恐怖心からは、現代社会に広がる同調圧力、異質なものに対する排除システムの存在を感じさせます。
 まさに同感です。「過剰なまでの恐怖心」が教室の圧倒的多数の状態から私たちは授業を開始しなければなりません。いわゆる「リアクションペーパー」は学生たちの「排除されないためのツール」でしかないというのが現状です。自己を自分のために解放するツールではない、ということですね。教師から見れば精神的管理のためのツールとして、たいそう便利なものです。
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 今年もいろいろな出会いがあった。そしてその出会いの度に、ぼく自身の「歩み」の総括ともなった。ありがたいことだ。