少しずつ進んでいると思うしかないか
便りが届いたかどうか不明なのが2件。うち1件は当人から未確認との情報を聞き出したが、もう1件は連絡が無し。
提出された原稿が修正されて再提出されたのはよしとするけれど、「あんたの指示通りやったんだよ」という「開き直り」のメッセージが添えられていたので、さらにカチン。ぼくの指示とは違ったから書き直しを要求したのだ。具体的に指示違反であったことを示したら、違反であることは認めたがあくまでも責任主体でないような言い訳。これから学問を担っていく人であろうに、もっと謙虚な姿勢を見せられないのかなぁ。
サロン・ラ・ヴィ、閉鎖宣言に対して、今日、Aさんからあって相談をしたいとメール。ぼくと個人的に話し合うのではなく、問題を感じた人たちの間で相談をして欲しい、と返信。そのほか2人が研究室を訪ねてきて、ぼくの真意とするとことを尋ねた。いずれにしても、問題解決能力を持って欲しいものだ。
明日は、研究室のレンタルPCの入れ替え。
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FBに、以下投書。
3・11大災害による被害はいまだ終息していない。ひょっとしたら永遠と思われる歴史スパンをかけなければならないのだろう。
同じように、永遠の時をかけて、「思い」を受け継いでいかなければならない巨大な被害が我が国には数多くある。その一つ、この3月他の大空襲による第2次世界大戦被害。以下、出典のメモを失ってしまったが・・・・。
日本全体の空襲被害
1.来襲米軍機(B29、および艦載機)
400回以上 66.000機 投下爆弾 16万トン
2.被災都市 約150都市町村 うち72市町村は軍事施設の無い市町村
3.被害状況 死者 31万人、不明者 2万4千人、負傷者 35万1千人、
全焼家屋 231万戸、軍需工場 600ヶ所大破、
罹災者 2100万人、疎開人口 850万人、
4.学徒勤労動員 総計 343万人
小学生 163万人、中学生 160万人、大学など 19万人
ちょいと考え「絆」と叫んで終わり、というわけにはいかない、ということは誰でも分かっていうはずだと思うけれど・・・。
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私の出身地三重県津市久居も空襲にあった。その時逃げ惑ったという母の「語り」が脳裏から離れない。以下語りの要約。
昭和20年7月28日は、忘れもしない津の街の大空襲。天を焦がす炎と煙がどんどんと広がってくる。もうすぐやな、久居に火がつくのんわ。母は背中に布団を背負い、胸にはまだ1歳半のぼくを紐で結わえ付け、左手には国民学校の教え子たちの成績簿関係、右手には食料を持って、雲出川(くもづがわ)辺へと走り続けた。「死ぬときは一緒やな。せやけど、父ちゃんが(戦地から)帰ってくるまでは死ぬわけにはいかんで。」 父はフィリピンレイテ島の激戦ですでに命を失っていたのだが。