墓参、というより墓地散策

 よれよれ爺さんになり果てたぼくの小平霊園散策。長男博史が30数年前に日本基督教団の共同墓に葬られている。そして、ぼくが研究者への第一歩を進めるようになった上田庄三郎も眠る。広大な霊園内に何を手がかりとして二人の痕跡を見つけようか。いずれの墓もぼく一人で、あるいは家族で、墓参をしたことがない。かすかな記憶を呼び起こしながらああでもないこうでもないと、つぶやく。そうそう、この人物のお墓はしっかりと思い起こすことができた。この近在のはずだ。

 大山郁夫。民本主義思想論陣者として、ぼくは修士論文のバックグラウンドに据えて少し学んだ人だ。
 しかし、目的とする墓を特定することが出来ない。管理事務所に尋ねることにした。その前に、館山にいる細君に電話で問う、「日本基督教団の何教会でした?」と。細君から日本基督教団東京教区だと教わり管理事務所へ。ずらりと並ぶ日本基督教団の教区、教会名の中で、東京教区と名がついているのはただ一カ所。「日本基督教団東京教区西東京教区教会」。その墓所を訪ねてみると、間違いない。長男を埋葬していただいたところであった。胸の内でこれまで訪問しなかったことを詫び、手を結んだ。

 上田庄三郎のお墓の所在はどうしても見つからない。管理事務所で「葬られている人ではなく墓の名義人でないと調べられない。」という。長男の耕一郎氏もすでに亡き人故、次男の建二郎氏はどうかと尋ねたがその名前は見当たらないという。三男氏の名前を出し聞こうと思ったが断念し、記憶を辿って自力で探索することに切り替えた。「ちょっと水を汲みに行ってくるわね」という長女・京子さんを目線で追ったその水くみ場の様子を思い出しはしたが、灌木が繁茂しているその光景を特定することが出来なかった。
 上庄探索は断念した。管理事務所でいただいた霊園地図には「著名人」の墓所が記されている。その中から、ぼくの人格形成に大きな意味を持った人びとを選んだ。まずは青野季吉。プロレタリア芸術論、「調べた芸術」は我が生活綴方史成立期に強い影響を与えている。訪なう人がいないのか、少し荒れている。

 続いて壺井繁治、栄夫妻のお墓。オリーブの木が植えられているのに気付かされた。

 霊園散策で暑気あたりをした。研究室に立ち寄り身体を休め、帰宅。
 帰宅後やや経って細君たちが館山から帰ってきた。下娘親子が帰路に我が家に立ち寄った。いやー、孫たちがすっかり大きくなっていた。ヨシ君は小学校4年生になったとか。胸板が厚く雄々しい。剣道の賜物かな。「学校は面白い」という。1年生の頃のマイペース振りで担任を困らせた面影はすっかり消えていた。ジジとしては、それはそれで、つまらない。コウちゃんは4歳だとか。握手を求められたのには苦笑い。