これでも「学術出版社」か、という疑念を持った日々

 ある書物のレイアウトを含めた割り付け的な編集を著者から依頼されたことがある。その著者とは長い年月社会的生活基盤を一緒にしたこともあり、著者がぼくに編集割り付けを依頼した言葉「あなたの感性に敬服しているからこそ是非お願いします」に忠実に従い−その時の心情を言葉で言うとこうなる−、割り付けの版下を作成して出版社編集担当に渡した。すると割り付けが変更されてファックスされてきた。「この書物は学術書ですから先生(ぼくのこと)のご案では品位が下がりますので、このようにさせていただきます。」との添え書きがある。著者からはぼくの案でいいというお墨付きがあったにも関わらず、だ。なかなか頑固な編集者で−ぼくでも敵わないほど−、自説を曲げない。「著者がこれでいきましょう、と言っていてもですか?」と問うても、「弊社の出版物ですから。」という。言うところの「弊社」は<学術出版社>を売り文句にし、ぼくのような出版先のあてのない研究者の研究書を出すことによって成長してきた。ぼくは、裁定を著者に預け、その言に「弊社」が従わないとなったら、関わっている「弊社」の仕事を全て投げ捨てる覚悟であった。
 さて、それからしばらく経って、同書編集の最終段階、「学術書」であるから、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語という外国語が登場する。一言一句、一文字一文字間違えることはあってはならない。それで、同出版社の編集部に赴き出張校正となる。「それぞれの国の辞書を用意してください。」 返答、「置いてございません。」 へっ、はぁっ?絶句。「学術出版社でしょ?当然これまでも外国語文字の校正作業がございましたでしょ?」「弊社は自費出版社ですから。弊社は完成稿を電子データで著者の先生からいただいて、それを印刷に回しておりますので。」 なるほど、それで、キャピキャピ元気一杯のチャラ男チャラ女が編集部、営業部のディスクを占拠しているわけだ。
 「事件」はこれだけですむことはなかった。数日後、「弊社」はぼくの剣幕に恐れをなしたのか、「特別に校正をいたしましたので、校正ゲラをご点検ください。これは例外のことでございますので、よろしくお願いします。」と、真っ赤になったゲラを郵送してきた。社外の校正のプロに依頼したという。以下は、それについてのぼくの「弊社」に対する申し入れ(抗議)内容。
1.(全般的に)校正の見逃し箇所が多い。多すぎる、と言った方がいい。著者校正をしなければとんでもない「学術書」になるところだった。
2.(全般的に)執筆者が考えに考え抜いた文体、使用概念について、いとも簡単に修正の赤入れをしている。それが執筆者の意図をより確実な表現にするものである、という確信の元に行われた校正行為であろうが、それは越権行為である。
3.(翻訳について) 翻訳資料について、原典を読んだ上での校正行為をなさったとはとうてい思われない。(もし原典を読んであったとしても)校正をすることによって原意が損なわれてしまっている箇所もある。誤訳であると推測される場合には、翻訳者に質すのが礼儀であろう。今回の翻訳原稿は著者校正がないと申し渡された状況の中で、翻訳の差し替えという、大変緊急かつ緊張を求められる作業であったが、その翻訳者の作業に対してつばをかけるような行為であると感じられた。
4.(翻訳について)資料の学術的価値とはどのようなものであるか、校正者は理解していないと思われる。元資料に可能な限り忠実に言語を転換させる、このことこそが学術資料としての価値を持つ。勝手に改行を入れたり、形容詞的表現を形容動詞的表現に替えたりすることは、我々研究者の世界では禁じられているほどである。
5.(翻訳について)校正者が「翻訳」について理解しているとは思われない。翻訳者の翻訳文体もまた翻訳者の個性を示している。文章のねじれによって誤読される怖れのある場合には校正の対象になるだろうが、そうではない個性的表現に対して赤を入れている。翻訳を差し替えたとはいえ、元の翻訳者の文体を損なわないようにしてある(「よさを生かしてください」=著者の指示)。
6.「学術」という限り、その対象となっている事象・概念についての理解をしたうえで(あるいは確認行為をした上で)校正作業をするべきではないか。残念ながら「歴史学用語」であったり、「歴史記述にふさわしい文体」であったりする箇所に対して、赤入れをしている。
7.ゲラ欄外に校正者の手で「ふざけた原稿だ!」と書いている。著者を侮辱する痕跡を残す校正者など、これまでお目に掛かったことがない。その校正者自身、例えばフランス語のアクサン記号をまったく理解していない、ドイツ語のウムラウトも分かっていない等々。「ふざけた校正だ!」
 「弊社」はへらへらと詫びの言葉を入れ、著者が仲に入ったので、ぼくは引き下がった。「ただし、二度とこの出版社に関わる仕事はいたしません!」
 明日はこの「事件」の続編を。