「友遠方より呼びつける、また偉大ならずや」

 「友」という言葉の響きに酔いしれる方のようだ。ぼくは「友」の言葉にはある種の不快感をも道連れとする感覚を有する者故、そのお方の言う「友」とぼくの実感として持っている「友」とは同義性を持たないと信じて疑わない。しかし、世間的に言えば、ぼくのゆがんだ「友」認識をまさかそのお方との交誼の中で確信を得るまでになるとは、思いもよらなかった。いや、これでは正しい表現ではない。え?えっ?うそでしょ?えっ?うそじゃないの?の心を度々働かせる交誼が続く中で、確信を得るまでに至った、ということだ。
 そのお方はご自身がなさるべき仕事をいともたやすく下請けに出す。
 某氏がぼそっとつぶやいた。「私には私の仕事があるのに、これをやりなさい、と命が下ります。いや、ちょっと今は・・・とやんわりとお断りするのですが、それはお耳に届かないようで、いついつまでに、というご下命が続きます。」そのつぶやきがあったことを耳にしたそのお方は、「何を言っているのですか。それは某氏のためになることなのです。私は某氏のためを思って仕事を依頼したのです。」と憤懣やるかたないご様子。某氏はそのお方の弟子でもないし同門生でもないし、ましてやずっと昔からの知人・友人などでもない、たまたまそのお方のお部屋で集まりがありそれに参加したという偶然性だけの「つながり」だ。おまけに命じた仕事はそのお方が近々出版なさるための作業。
 そのお方のお住まいの近くまで呼びつけられて作業を命じられた某氏は、自身の仕事を放り出して、遠方より駆けつけざるを得ない羽目に。なんたって、某氏にとってそのお方は、ひょっとしてその世界で住み続けることができるかどうかを案ぜざるを得ないほど、強大な権勢を誇っておられる方なのだから。そのお方はご自宅からチャリで5分とかからないところ−学生食堂もどきレストラン−でいつも作業をご下命なさる。ある時、某氏は、電車をいくつも乗り換え、さらにバスに揺られてゼーゼー言いながら駆けつけたが指定時間に10分遅れてしまった。「時間厳守!それは社会的常識ですっ!」と猛烈な剣幕のそのお方のお出迎えをいただく羽目になった・・・。さて、別れ際、「食事代はそれぞれが出しますね。おごられるのは気持ち悪いでしょ。」 ちなみに某氏はまだ無給の身分、そのお方は悠々自適生活のご身分。仕事を頼んだ人がその仕事に見合うだけの経費等を支払うのが社会的常識だが、そのお方は、某氏に交通費も、仕事に要した必要経費も、一切支払うことはない。時間は奪われ、能力は提供させられ、経費は自腹。これって、「社会的常識」なんでしょうか?そうそう、そのお方のご本はお望み通り出版されたが、某氏に対する謝辞はただの一言も見られなかった。某氏のような扱いをされた方は他にも何人かいらっしゃるとか。
 涙目でぼくに語ってくれた実話である。実話というがその場でその様子を見たわけでもないだろうと反論されるかも知れないが、某氏の立場がそのままぼくに入れ替わる時がすぐにやってきたことで確信する次第。そして曰く、そのお方は「私とあなたとは友情という絆で繋がれています。」ぼくは某氏と違って現職にある身だから涙目になるほどには金銭的に苦しめられることがなかったが−ある一つの例外を除いて−、これが約8年続く間、血反吐を吐くほどに−これは事実です−そのお方に精神的身体的苦痛を味あわされた。ハッキリと決別するべきだと、ぼくの身の回りの、事情を知る人々はぼくに忠告する。そうだよな、そのお方の「名誉」を守ることを大きな目的として今日まで来たが、そのお方は、御自らの「名誉」の依って立つところには身も心もいらっしゃらないことを宣告めされたわけだから。そのお方にとって「友」とは便利な使い捨て知恵袋ってところでしょうね。
 決してアビアントゥとは言わないオーバーの言葉をそのお方に献げましょう。10月28日が過ぎたら。