「それは申し訳ないことをしました。」

 そのお方のお言葉使いは、それはそれは謙虚である。甘い声も相まってファンがたくさんいらっしゃると聞き及んでいる。ある日、そのお方の出版記念会があったので参加させていただいた。そのお方のご講演の間、キャーッだとかワァーだとか、そういう声は聞こえなかったが、深い溜息とすすり泣きのようなものが伝わってくる。式次第を完全に狂わせているそのお方の長舌であっても、会場からは苛立ちなどの雰囲気はまったく伝わってこない。
 さてさて左様に多くの人びとに愛されるお方からある催しの世話係を依頼された。もちろんぼくはお引き受けし、その催しの裏方をぼくと交誼のある方々に依頼した。その人たちはそのお方とは一面識もない。深い溜息もすすり泣きも出す世界とはまるで縁のない方々ばかりだ。そのお方は催しが終わったらその後は裏方さんたちと交流したいとおっしゃっるので、それぞれの裏方さんのご予定を変えていただき、会を設営した。が、その設営した会場にはそのお方のお身内で溢れかえり、裏方さんたちは入り込む隙間もなく、ただただ呆然として、会場の表で佇まざるを得なかった。ぼくは裏方さんたちに頭を下げ、その日の会が盛会であったのは裏方さんたちのお力をいただいたおかげだと御礼を言い、別の会場を急遽用意しささやかな宴の場を設けた。
 後日のこと、ぼくはそのお方に、裏方さんたちに対するそのお方の非礼について異議申し立てをした。というよりはそのお方からすれば「責められた。友情に亀裂が入った」と「お身内」に強くこぼすほどに、そのお方にとって、プライドを傷つけられるものであったのだろう。その方の「お身内」からぼくのところに、ぼくを強く断罪するお便りが届けられたことで、このことを知ったわけなのだが。
 ぼくはそのお方に、「先生をまったく知らない、お教えもいただいたこともない人たちですが、会の裏方を担った方々のお顔とお名前とを覚えていらっしゃいますか?先生の方からお礼を言いたいとおっしゃったので、裏方さんたちはそれぞれの御用を捨ててあとの会に時間を当てて下さったのです。そのことをどうお考えですか?私を友とお呼び下さるのなら、友の問いに、別の方にグチるのではなく、友に直接お答え下さい。」と申し上げた。そのお方曰く、「いや、お顔もお名前も思い出せない。申し訳ないことをした。」とおっしゃる。さすがよくできたお方だ、と思おうとした瞬間、そのお方からこんな言葉が出された。「お会いしてお詫び申し上げたいので、○○にいらっして下さるよう、お伝え下さい。」○○はそのお方がお住まいになるすぐ近在。そこへ行くには交通が便利とは言えない。
 ぼくはその方のお言葉をそのまま裏方さんたちにお伝えした。裏方さんたちは、異口同音に、「やはりお偉い方はお偉いのですねえ。もちろんお顔も拝見したくありませんので、仕事の都合がございますので、とお断りして下さい。」
 やはり、すすり泣き的深い溜息を吐かれる方々だけとご交誼をお続けなさった方が、そのお方のためなのだ、と今は強く思う。もちろん、ぼくは、悔しさと絶望の溜息を吐くのでありますが。