悪夢がよみがえった&ハッピーなシメの日

 ・・・・階段を下りる際に10段ほど滑り落ちる。暗かったこと、鉄製の階段だったこと、板幅が狭かったこと、段高差が狭かったこと、手すりが高かったこと、もちろん、ぼくの油断もあったろう。以上の相乗効果によって、だだだだだ・・と滑り落ちた次第。とっさに頭をもたげたので頭は打たなかったが、お尻、背中、それと両腕、を打つ。・・・・
 2003年暮れの経験が記憶の底からよみがえった。今朝、自宅階段を滑り落ちた時。
 「なんの落ち度もないのに左遷だものね。」とP氏に言われたその「左遷元」で、ある作業を命じられた時の階段滑り落ち経験だ。心の痛みの分かる人ならば、「左遷元」で監督権限もない人の名で人目に付かないように作業をさせる、などということはないだろう。しかし、当の本人は無頓着。自分の欲求が満たされるとご機嫌が良い、という意味では幼児並みの神経の持ち主。40億年の命の継承の重みを説いても、眼前で苦しんでいる「支配下に置いた者」にはその命の重みを分かち合うことはない。
 そういう神経だけは自分中に養いたくはないと思いつつ、P氏の「現在」を満たすために務めた日々は、やはり「悪夢」だと、強く思う。
◎「お前はなぜセガン研究を進めたのだ」という問いがなされる。それに対してぼくはこんな風に日記に書いている。「ぼく自身の、現職のための研究的な仕事ではないものに、全力を注いできたのは、他ならない。自分の人生の中の教養の欠落を埋めたいがためである。それが間接的に現職のための研究に返ってくる。これが、研究力量というものだと思う。」 では、「セガン以降の研究を筏師の文化史に定めるゆえんもそうか?」 「いや、人生の精神的豊かさを確かめるため。」
◎18時から自主ゼミ。高校の教育目標にある「自主・自律」の文言と事実についてあれこれと議論。「自治」概念が抜かれてしまった「自主・自律」は権力的に示された課題に自主的・自律的に自らを傾けるということ。あれこれ議論を傾けている途中退席をしたスキに、なんとぼくの誕生を祝う会に衣替え。思いがけない学生たちの好意に感謝という言葉ではとても言い表せない感情がわき起こる。後でこそっと教えられたのはアリサちゃんが仕掛け人だとか。ありがとう。