ひと味違う「筏」論
「マガザン・ピトレスク」第1巻(1833年)に掲載された項目「薪筏」は、これまで読んできた史料とは違った視点が提示されていて、非常に興味深い。以下に下訳を。
「パリの薪不足−ジャン・ルーヴおよびルネ・アーノウによるtrain(貨列)の創案と改良
貨列は薪材専用の一種の筏である。薪はしっかりと束ねられるが、その方法によって、バラバラになることがなく、遠く隔たったところからパリまで流すことができる。貨列はおよそ長さ56トワズ(1トワズ=約1.95m)または216ピエ(1ピエ=約32.4cm)、幅14ないし15ピエである。貨列の建築の初期の頃は今日知られているのとはまったく違っていた。はじめは中に詰め物をした皮の胸当てをした男たちがその腕力だけで貨列を運航していた。今では、筏に取り付けられた櫂と杭とを用いて容易に舵を取っている。
貨列の創案の前は、パリの港に、長い間、首都の欲求に応えて、近郊の薪材が運ばれていた。しかし、16世紀の半ば頃、最寄りの森林が底をつき始め、パリはいつの日にか暖房用の木が無くなってしまうのではないかと危惧されるようになった。近いうちに、遠く離れた地方の木を到着させなければならないだろうとの予測が出された。この見通しは震え上がらせた。というのも、長距離に及ぶ移送が必要であり、おそらく、途方もないほどに暖房費が掛かるだろう、と。今日では薪材で造る筏の創案を有難いことだと思いもしないだろう多くの人びとに、首都が脅かされている恐ろしい不都合を改善することができる方法が求められた。人びとは困惑した。たった一つの源として可能性を得てきたのが、近隣の森林の生長と保持とであったのだから。実際、この方法で、長い間、高い代価を払って、嫌々ながらやってきたのだ。それというのも、結局のところ政府の用心深さに帰するのであったけれど。
パリは、木が高価になり、まさに居住するには不適なところになろうとしていた。ちょうどその頃、1549年、パリの一人の商人階級(ブルジョア)、ジャン・ルーヴが、航行不能な数多くの河川の流れを集め、遠く離れた森で切った木をその流れに投げ込み、基幹河川にまで川下りをさせる、ということを考えついた。それから、貨列の形にし、川の流れに乗せ、つまり船ではなく、パリまで運んだ。
モルヴァン地方で、ジャン・ルーヴが初めて試みた。この地で大量の木を結びつけ、自信を持って小川の流れに委ねたのだ。彼の構想は、その執行の前には、ご多分に漏れず、狂気の扱いを受け、妨害もされた。1556年にいたってようやく、ルネ・アルノウによって支持され、受けとめられるようになった。
長い時間をかけて川に流された木は、ずっしりと重みを与える樹液や塩分が無くなっている。置き場で一ヶ月以上乾燥させた後は、非常によく燃えるようになる。主として、パン屋、焼き肉屋、ケーキ屋に売られる。いずれも炉で焚くのだ。ブルジョアたちは生木を好んでいる。