「事実」に忠実でありたい

 昨日の宮内庁報道以来、腹立たしい情報がネット上などで駆け巡っている。腹立たしいというのは、事実を確かめる以前に「結果」を発信するという行為だ。ここで言う「結果」とは発信者が想定するだけの「結果」である。こういうのを、丁寧に言えば「憶測」ということになる。世間的な言葉で言えば「うそ八百」ということになる。これが世間話で社会的ダメージが無いのならば目をつむることができるけれど、20年前、とんでもない「被害」を被った身としては、捨て置くことができない社会現象だ。いや、研究上にことに絞ってみても「憶測」発信者が「社会的権威をまとっている人々」であったセガン研究でも、ずいぶんと苦しめられた。それはつい先年までのことだ。自分自身の研究の本質をうっちゃっておかざるを得ない状況に追い込まれたこの身は、この世界で相当の信頼を無くしてしまい、「ああ、川口はもう死んだも同然だね。」という評価に、今や落ち着いている。ばかばかしい。そして、いやだね−、どこまでついて回るのさ。
 さて、昨日の古書購入の話。ドーデ−原作の翻訳かどうかを知りたくて、そしてそれが原作翻訳本であるのならば、筏師やクラムシーがどのように描かれているのか、同時代がどのように綴られているのか、それを知りたくて、『川船物語』在庫の古書店をネットで検索した。全国各地に在庫されていることを知ったが、すぐに入手できるとすれば、東京の古書店と限られてくる。それと、ロマン・ロランの『コラ・ブルニヨン』も入手したい。S先生からお借りしたものはどうも訳語に落ち着きが無い。ブルゴーニュ方言の訳に苦労したと訳者緒言にある。この両書を置いている古書店を探すと、駿河台下のK書店がもっともふさわしい候補書店であった。電話で在庫を確かめ、店への道筋を教わり、よれよれと訪問した。
 ぼくが19世紀フランス史の研究を進めていると自己紹介すると、映画『レ・ミゼラブル』を話題に振ってきた。「皆さん、涙を流してご覧になっておりましたけれど、私は涙一つ出ませんでした。」「ほー、それはどうして。」「原作をかじった身と、自分の世界観とスクリーンに形象されている世界観とが一致した方との違い、ということでしょうか。」「というと?」「レ・ミゼラブルは19世紀前半期の社会変革をバックにした作品ですね。そこで描かれている事象の片々のどれかに心を寄せることができるという希有な作品であることにあると思いますけれど、それがユゴーの描きたかった世界かどうか、ということとは別ですね。第一、スクリーンに描かれた時代ではユゴーは変革者じゃ無く守旧派であったという史実に、私はある意味、シラケを覚えます。」「なるほど、ユゴー貴族院議員になりたくて王妃にとりいっていた、といわれますものね。」「そうなんですよね、そういった世界は映画ではまったく描かれてません。」etc. 久しぶりに、古書店主の教養と「会話」する喜びを得た。
 電話で前もって伝えておいた『川船物語』(角川文庫版)、『コラ・ブルニヨン』(みすず書房版)、そして注文書名として古書目録から情報を脳内にインプットしておいた『大正11年版ロマンローラン全集第6巻』をカウンターで受け取り、破損等が無いかどうかを確認した。その後も店主と「フランス19世紀」の話を続けたが、店主が「フランス19世紀となれば、フローベル『感情教育』は必読でしょうね。」という。同書は学生時代に目を通したが、当時のぼくの感性では受け止めることができず、その後は、研究書等の情報で知った気になっていた。「原書と同じイラストを入れた邦訳版がございますよ。」と書棚から取り出してきて見せてくれた。時代状況を視覚からも得ることができることや、乳母、馬車等の時代論キーワードが埋め込まれた文学であることを思いだしたことで、入手することにした。
 革張り金箔の背文字の『大正11年版ロマンローラン全集第6巻』はじつは大変な掘り出し物であったことを帰宅後知ることになった。次は扉ページ。

 じつに「大正期文化」ではないか。同書奥付を見ると「非売品」とある。訳者名が「植村宗一」、発行所「人間社出版部」・・ひょっとして「直木三十五」の作品?!
 直木三十五作品リストによると、ロマンローラン全集第6巻はコラ・ブリニヨンでは無い。コラ・・・は第7巻。するとK古書店の『大正11年版ロマンローラン全集第6巻』という書誌は、確かに箱には「ロマンロラン全集第6巻」と印字されているが、入れ物と中身とが違ったということになる。それにしても、箱の中身はコラ・・・の他、ミケランジェロ作品アルバムの簡易冊子が入れられている。このアルバムは第6巻の主要な内容。
 たぶん、直木研究にとっては垂涎の品だろう。ぼくにとっては筏師文化研究にとって重要な史料となっている。