我が「北の狭ん所」実証と、お、おー!

その1 わが「北の狭ん所」

その2 薪材筏づくりに子どもたちはどのように参加していたのか。だいぶん見えてきた。そのエキスをー。
 子だくさんであったにしても時代が時代、乳幼児の死亡率が高く、筏師家族一戸あたり2,3名が作業に参加していたと見られる。ただし、7歳以降であって、それより幼い子どもは、託児所や保育園、幼稚園がない時代には(1848年以前)、両親の作業の場に連れて行かれ放っておかれたようである。それは同時に、子どももまた、「働き手」として期待されていたという意味でもある。ただし、経済的な補完要員の意味が強い。以下、史料より抜粋。
「10歳から12歳までの「ガキ」は、「後方の小さな人間」として加えられることが可能となる。筏師の旅程の最初だけのお供をするが、それは非常に難しい。その役割は、trainの最後尾を心棒で支えきることにある。とりわけ水門を通過する際に重要な役割を持つ。仲間(筏師)の助けを借りて、彼は職能を覚え、交代要員の座を確保する。
 およそ50キロメートル進むと、川は二つのtrainを連結することができるほどに十分大きくなる。そこで、子どもは筏と別れ、徒歩で帰ることになる。その場所で、あと一つのtrainの到着を待つ。それぞれのtrainの運転手であるふたりの成人男性が、それ以降は、一台となった「連結(筏)」をパリに向かって運転する。」
 ところがですね、ぼくが入手した1772年5月3日付の公文書「薪材の商いに関して」によりますると、筏師たちの作業には、一人あたり20リーヴルから24リーヴル支払われることになっており、それはパリの材木問屋で受け取る、本人出頭制。つまり、子どもを途中で帰してしまうとその分の労賃を受け取ることが出来ないことになる。だから、可能な限り、子どもも親方のお供を最後までしたはずだ、となるわけですね。
 命がけの仕事ですもん、ちゃんと払ってやれや。