過ぎ去りし日が顔を出す

 フランス語学習に疲れて書架整理。整然と?並んでいる書物の上に雑然と積み重ねられている書類等を取りわけ、焼却処分に回すかどうかを思念していたら、書類の間からこぼれ落ちたものがあった。M病院小児科医H先生からいただいた葉書である。昭和61年の日付消印が押されている。
「寒い日が続いておりますが、如何お過ごしでしょうか。昨年お父様から診断書の件でお電話頂き、その後、御連絡がないので気にかかっておりました。お忙しいことと存じますので、どうぞ郵送して下さい。私はあの日以来、1ヶ月位は放心状態で仕事を続けてゆく自信がなくなっておりましたが、頂いた御本の”生きる者の確かな足跡こそ逝きし子らへの贈り物となるらむ”という言葉に励まされて立ち直りました。これからもがんばってゆくつもりです。みなさまのご健康を心からお祈り申し上げます。」
 亡き娘光の担当医を勤めて下さった、最新の治療法を求めて日夜可能な限りの論文や資料に目を通しておられた若き女医の姿が思い出される。娘の亡骸を前にしてぼくと女医とが静かに語り合ったことも思い出される。「力が及ばず申し訳ありません」「いえ、先生が治療法を求めて一生懸命であったお姿をこの両の目で拝見致しております。娘も一生懸命生きようとがんばっておりました。ですが、限りある命の限りが訪れたという結果だと思っております。」
 後日、医師に献呈した拙著は、出来上がったばかりの『教師像の探究―子どもと生きる教師の創造』(教育史料出版会、1986年)である。同書は娘の追悼ばかりか、上田庄三郎の奥様・鶴恵さま追悼の書でもあり、埼玉大学でのゼミ生であった新卒女教師コッコロ君の追悼の書でもあった。この年ほどに「命の尊さ」と「惜別のつらさ」とを覚えたことはない。
 あの時からもう30年近くになるのか。くだんの先生は今どうしておられるのかと、ネットで検索をした。たくさんの業績を積み重ねられた立派な現役医師である情報に接し、改めて、ありがとうございました、と謝意を心の内で申し上げた。